HijichoのLINE公式アカウント
友だち追加数

日本国憲法と大学の自治、そして市大 〜変革期の市大生〜


憲法上、大学の自治において、学生はその主体たる資格をもつのか、については過去に様々な議論が重ねられていた。本記事では、その経緯を見ていくとともに、府市大統合問題を関連づけて、現在市大生は大学の自治に関してどのような立場に置かれているのか、持論を展開していきたい。

前編:日本国憲法と大学自治

学問の自由と大学の自治

日本国憲法第23条は、学問の自由を保障する旨を明示にて規定している。学問の自由とは、個人の真理の探究を、国家が圧迫・干渉したときにこれを排除することができる権利であり、この内容について、通説では研究の自由、研究発表の自由、教授の自由を指すとされる。現行憲法に大学の自治に関する明文の規定はない。しかし、大学の自治は、憲法23条の保障する学問の自由のために必要な制度として理解されてきている。

大学の自治とは、大学が、政治的な統制や行政的な干渉、社会的な圧力を排して、研究・教育にかかわる自律的な権限をもつことだ。大学の自治権の内容には、(1)教員の人事に関する推薦・選任・免職等の諸権限、(2)学長・学部長等内部管理者の選任権、(3)学則・内規等内部規程の制定権、(4)教育課程・カリキュラムの編成権、(5)学位取得資格の認定権と授与権、(6)施設の管理権、(7)入学者の選定権、卒業認定権などがある。

学生は大学自治の主体か?

大学の自治の主たる担い手は教授その他の研究者であるが、学生も自治の主体となるかどうかについては議論がある。

伝統的な大学自治の考え方によれば、自治の担い手は教授その他の研究者の組織とされ、学生はもっぱら営造物 (公共のために用いる施設) の利用者として捉えられた。ポポロ事件*最高裁判決は、学問の自由と自治の主体を「教授その他の研究者」とし、「大学の施設と学生は、これらの (教授その他の研究者の) 自由と自治の効果として、施設が大学当局によって自治的に管理され、学生も学問の自由と施設の利用を認められるのである」と判時して、いわゆる学生=営造物利用者説をとっている。

この見解に対しては、「営造物利用者説の誤りは、大学を他の文化的営造物、たとえば、美術館、博物館、図書館等と同視したところにある。」とし、「大学には、他の営造物と異なり、研究と教育の場としての特殊性が認められ」、学生は「教員から学ぶとともに教員に学問的示唆を供する」存在であり、その「精神と精神の交渉過程こそが大学の特色」である、という批判もある (有倉遼吉,『憲法秩序の保障』,1969年・日本評論社,166頁)。

その後、東大紛争を契機に、学生も大学自治の担い手であるべきだという議論が強くなり、ポポロ事件判決の採った伝統的な理論を見直す意見が学説上も有力になってきた。ただ、学生は教授その他の研究者とはその地位と役割も異なる。この点について、東北大学事件控訴審判決 (仙台高判昭和46年5月28日 判時645号55頁) が、「学生は、大学における不可欠の構成員として、学問を学び、教育を受けるものとして、その学園の環境や条件の保持およびその改変に重大な利害関係を有する以上、大学自治の運営について要望し、批判し、あるいは反対する当然の権利を有し、教員団においても、十分これに耳を傾けるべき責務を負うものと解せられる」と判示している。

もっとも、肯定説によるとしても「学生が大学の管理運営にどこまで参加しうるかについて、一般論として論じることはできない。学生の参加がどのような形で具体化されるかは、各大学が法律の定めるところにしたがって、自主的に決定すべきことがらであろう」とされている (芦部信喜,『憲法学Ⅲ 人権各論(1) 増補版』,2000年12月30日,有斐閣) 。

注釈
・ポポロ事件
ポポロ事件とは、東京大学の公認学生団体「ポポロ劇団」が、1952年2月20日に、演劇発表会を行なった際に、学生が会場にいた私服警官に暴行を加えた事件。上演中に、観客の中に私服警官4名がいるのを学生が発見し、身柄を拘束して警察手帳を奪い、謝罪文を書かせた。その際に学生らが暴行を加えたとして起訴された。

後編:市大における学生自治

日本国憲法における大学の自治と学生の関係を見た上で、現在の市大における学生の自治について考えてみよう。 (以下、学生も「大学の自治」の主体であるという学説に立った上で、現在の市大について持論を展開していく。)

今までの市大生
「学生は大学自治の主体であり、大学の自治への学生の参加がどのような形で具体化されるかは、法律の範囲内で各大学が自主的に定めるところに委ねられる」という肯定説に立つならば、現状、市大においては、学生の参加が具体化されていない面もあるのではないだろうか。実際、過去には保護者への成績通知制度などで、問題意識から声を上げている学生もいた。しかし、大学による説明会や大学と学生との話し合いの場が開かれることはなかった。

それと同時に、学生自身が望まなければ、大学側から自発的な説明をするとは思えない。Hijichoでは、これらの問題に対し、学生同士の連携不足や「学生の総意」の不在を指摘し、「市大生は市大の問題に対し、もっと深く取り組んでいいと思う。市大をよりよい大学にするのは、市大生に他ならないのだから。」と主張を行なっている (吉田寮食堂問題から見る市大 2012/05/06)。

つまり、現状本学において「学生の参加がどのような形で具体化されるか」は明確にされていない面もある。また、学生自身も「大学自治の主体」たる自覚が必要ということだ。

変革期の市大生
次に、これからの市大を見ていこう。現在の市大生は、大学の統合という「変革期」に置かれていると言っていい (はたして実現するかどうかは定かではないが) 。もしも新大学が実現するのなら、学生の参加がどのような形で具体化されるかは、新大学が自主的に定めることになる。

実際、「新大学ビジョン(案)」においても、「学生生活を把握するとともに、学生の意見を反映する仕組みを構築し、教育環境の改善に努める。」という文言がある (「新大学ビジョン(案)」 3 理念実現に向けた戦略 (2)教育戦略 より) 。しかしながら「学生の意見を反映する仕組み」というのも、具体的にどのようか形で実現されるかは明らかではない。また、同ビジョンにおいて、サークル・部活などの課外活動ついては一切言及されていない。 (詳しくは、市大存亡の危機 ~無関心ではいられない~ 2013/04/06 より) 。

現状「学生からの意見を反映する仕組み」が具体化されていないことが、諸制度の導入に際し、大学からの一方的な通知にとどまってしまうという問題を引き起こしている一因である。だからこそ、新大学が実現する際には、「学生からの意見を反映する仕組み」が、しっかりと具体化され、教育環境の改善等に活かされることを希望する。

そして、「学生の意見を反映する仕組み」作りにこそ、学生の意見を反映していく必要があるのではないだろうか。仕組みは一方的に与えられるものよりも、双方の意見が反映されたものの方が、よりよいものになるはずだ。そのためには今後、統合後の大学の自治に関する仕組みや規定を、大学と学生が一緒になって作り上げられるような場が必要だろう。それと同時に、課外活動に関して言えば、統合によって四者連絡協議会 (以下、四者協) が存続できるのか不明瞭だ。四者協が解体された場合、加盟団体の活動が保障されないのはもちろんだが、四者協のみが有している大学との折衝権が失われることも大きな問題だ。大学運営に学生の声を届ける術を失うことが危惧されるからだ (詳しくは、市大存亡の危機 ~無関心ではいられない~ 2013/04/06 より) 。

つまり我々学生は、大学自治の主体たる新大学における「学生の自治」に対して、明らかになっていない部分を明らかにし、仕組みに反映していくこと、そして現在四者協が有している折衝権など守るべきものを守っていくことが必要だ。そのためには、統合問題に当事者意識を持ち、学生間で連携して声を上げていく必要がある。

新しい大学に、学生がどう関わっていくのか。それは未来の統一された大学の学生の問題ではなく、我々が担うべき問題でもあるのだ。だからこそ、今の市大生も府市大統合に「無関心ではいられない」。

参考文献

・野中俊彦、中村睦男、高橋和之、高見勝利,『憲法Ⅰ (第4版) 』,2006年3月30日,有斐閣
・芦部信喜,『憲法学Ⅲ 人権各論(1) 増補版』,2000年12月30日,有斐閣
・有倉遼吉,『憲法秩序の保障』,1969年・日本評論社

文責

鶴木貴詩 (Hijicho)


関連記事

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

Hijicho on Twitter

ページ上部へ戻る