市大新聞Hijichoが誕生する前にも「市大新聞」が存在していた。1949年より30年以上発行を続けて来たが、1982年を最後に休刊が続いている。この面は「市大新聞」に掲載された過去の記事を発掘して、現代の文脈のもとに蘇らせようという試みである。第1回は昭和24年 (1949年) 4月に発行された「市大新聞」創刊号より、当時市大の学長 (総長) であった恒藤恭教授が「市大新聞」創刊に寄せたメッセージを取り上げる。
市大新聞のために
大阪市大総長 恒藤恭あたらしい構想と企劃(企画)とに基づいて、六つの学部を包容する大阪市大学が生まれることとなったが、それと呼應 (呼応) して此の大阪市大新聞が新たに創刊されるに至ったことは、まことに悦ばしい。
本紙に対して第一に期待したいのは、学内の重要なニュースが出来るだけ正確に本紙を通じて報道されること、且つ全学生諸君の動向と輿論 (世論) とが絶えず明瞭に本紙の紙面に反映されることである。次に期待したいのは、既存の諸大学の学生新聞を通じて見出されるところの一定の型にとらわれることなく、独自の特色をもつ学生新聞として成長するであろうことである。
やむを得ない事情のためとは言うものの、差当り幾つもの場所に散在している校舎を以て大阪市大学が発足せざるを得ないことは、甚だ遺憾である。さいはいに本紙の存在が、大阪市大学の綜合的統一性を実現し、保持する上に役立つところが少なくないであろうことを第三に、特に切実に期待したいと思うのである。 一九四九・四・一三
旧新聞部の誕生
「市大新聞」が創刊された1949年は、ちょうど新制大阪市立大学が発足した年でもある。それまでは、大阪市の下、大阪商科大学、大阪市立都島工業専門学校、大阪市立女子専門学校と、それぞれ別個の大学が3つ存在していた。それらが統合されて大阪市立大学が設立されたのである。(現医学部の前身である大阪市立医科大学が市大に編入されたのはこれより後の1955年のことである。)
「市大新聞」も大学の統合にあわせ、上記3つの大学にもともとあった新聞部が統合して誕生した。
市大統一のための役割
そうした「市大新聞」創刊に寄せて、恒藤総長は「市大新聞」に対して3つのことを期待していた。
1. 学内の重要なニュースの報道と、且つ学生の意見を汲み取ること
2. 型にとらわれない独自の特色
3. 市大の綜合的統一性の実現への寄与
特に3番目に挙げたことに関しては、当時の市大の置かれた状態からして切実な思いであったと推測できる。
大学は、統合して体裁上は一つになったものの、その実質は、キャンパスが離れていて総合大学と呼ぶには統一性が著しく欠けている。そうした地理的なハンディキャップを埋めるためにも、異なるキャンパス間での情報の伝達、そして統一性の実現という意味で、「市大新聞」は大きな役割を期待されたのだろう。
62年目の市大は
現代に立ち戻って考えると、60年前の状況と比べれば、キャンパスは医学部を除けば、全て杉本町に統合され、空間的には統一された。全学共通教育やサークル・クラブ活動を通して、異なる学部の学生が互いに交わる機会も多くなった。皆が知見、経験することの共通項も増え、大学としての一体感も増したと言えよう。その点では、過去に課題として挙げられた総合的統一性は、ある程度実現されたと考えてもよいだろう。
だが、キャンパスが統合されたからと言って、総合大学として求められる役割が十分に果たされたとは言えない。異なる学部が一箇所に集まって、それぞれが別個に学び、研究するならば、単なる単科大学の集まりでしかない。異分野の者同士が交流し、互いの知を刺激し合う。そこから新しい価値、学問上の発見、または学問分野が生まれる。そういったことが総合大学の魅力の一つではないかと思う。
総合大学とは何か
今の市大で言えば、様々なバックグラウンドを持った人々が交流する頻度は、確かに昔と比べれば増えた。とは言え、まだまだ少ないのではないか。学生が、あるいは研究者が他の学問分野に触れる機会が果たして十分にあるだろうか。聞くところによると、教授の学部間での交流は少ないらしい。教授会で大学運営に関して話し合うことはあっても、学術的な話し合いはほとんどないようだ。そういったことはむしろ、大学を離れた外の場で行われるらしい。
総合大学とは何か。それは既存のあるものを足し合わせて単に一緒くたにするのではなく、それらを上手く掛け合わせてシナジー(相乗効果)を生み出していく場でなければならないだろう。
異なるものをつなげていく―これが「市大新聞」に代わる「Hijicho 市大新聞」に求められる新しい役割ではないかと考えている。
文責
徳永一雄 (Hijicho)
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