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陸前高田 復興と忘却


先日、岩手県陸前高田市にある米崎小学校集会所を訪れた。筆者が東北を訪れるのは約15か月ぶりとなる。被災地は今、どうなっているのか。現地で聞いた事、体験した事を書かせて頂く。

忘却との戦い

大津波の傷跡

東京から車に揺られること8時間。僕らは陸前高田市に入った。既に日が暮れて視界が限られていながらも、道の両側に広がる瓦礫がちらほらと目に映った。

平坦。

かつて無秩序に山積していたはずの瓦礫は、この20ヶ月の間に崩され、運ばれ、整理されていた。

夜は集会所にお世話になった。自治会長である佐藤一男さんや後述する桜ライン事業関係者のとんちゃんと、お酒を交えて語り明かした。そこは被災したことを感じさせないほど温もりに包まれた空間で、初めて訪れる僕らを温かく迎えてくれた。

翌朝、とんちゃんに陸前高田の街を案内していただいた。高台にある集会所から車で街に降りる。街に入ってまず目に入るのは、平坦な、茶色い土地。かつて街であった場所は寒々とした地肌を見せていた。延々と広がる平坦な景色の中、点々と工事車両があり、廃墟と化した市役所やスーパーがあった。刻々と進む忘却を食い止めるかのように、その無防備で生々しい破壊の跡をさらけ出していた。

写真=陸前高田の街並み

写真=被害にあったスーパー

案内された主な場所は、一本松と病院の官舎、市役所、そして桜ラインで植樹した現場。噂の「奇跡の一本松」の姿は既になく、その木を津波から守ったであろうユースホステルの建物と、また別の一本松の姿があった。とんちゃんが言うには、「奇跡の一本松」は元々7万本の松林とは別に位置している上、堤防の内側であった為、「7万本の中で唯一生き残った」という表現はふさわしくないらしい。ただ海辺に伸びるたった一本の松の姿は見栄えが良く、報道や象徴に適していた為に大きく取り上げられたのだと。

写真=「奇跡の一本松」の現状

一方、少し離れた砂浜に立つもう1つの一本松は、枝と葉が削げ落ちている為、枯れ木が一本立っているような印象を受けた。こっちこそが奇跡なんだととんちゃんは言う。その木の周りには倒木や木の株が無数に見えた。7万本の松林の跡だ。この場所こそがかつて松林があった場所であり、この松こそが「7万本の松林の中で唯一生き残った」一本松だった。メディアは真実を若干歪曲して報道していることになる。しかし、その歪曲は果たして悪なのか。「7万本の松林の中で唯一生き残った」「美しい」一本松に心を救われた人もいただろう。歪曲したその是非は誰にも問えない。

写真=7万本の松林跡

写真=現在残っている一本松 (とんちゃん提供)

病院の官舎、市役所と続けて回った。どちらも廃墟であったが、そこには生々しい日常の気配が未だに残っていた。その気配と現実が、かつて確かに人が住んでいたことを、そして津波の脅威を物語っていた。画面を通して何度も見た姿、昨年訪れた時に目に焼き付けた姿。それでもやはり現場を直視するのは厳しいものがあった。

写真=被害にあった病院の官舎

あの日、ここに住んでいた人はきちんと逃げることができたのだろうか…。想像しようとするが、うまくイメージができない。そんな風に思考を巡らせていた自分に、とんちゃんの言葉が滑り込んできた。

「俺の同級生も、まだ見つかってないよ。」
とんちゃんのその言葉で、もやもやしていたものが心の奥にストンと落ちた。

ああ、こういうことなんだ。

自分が普段笑い合っている友達が流されて見つからない。そんな悪夢。とんちゃんという身近な存在が経験した悲劇。「被災者」というスポットライトを当てていなかったからこそ、その言葉に衝撃を受けた。ここにはそんな悲劇がありふれているという事実が何より恐ろしかった。

地震が発生した直後、指示に従って多くの人が屋上に逃げ込んだ。屋上よりもさらに高く、看板の上にまで避難した人もいた。そして後者だけが流されずに済んだ。
地元のある小学生は避難場所に指定されていた学校の体育館に避難した。津波が来るまでの間に山に逃げ込めば助かったはずだった。
あるお婆さんは、地震の規模を感じ取り、今まで流されたことのなかった自宅を捨てて山に登った。自宅は眼下で大波に呑まれたという。

津波が想定を遥かに超えていた。何度も聞いた言い訳だが、それが真実であった。想定外が起こりうること。この教訓だけは決して忘れてはならない。

 

忘れないために

その為に、陸前高田では数々の事業を行っている。その中でも特に大きな2つの事業を紹介したい。

一つは、震災の被害を忘れないための保全事業である。
今回案内された市役所もその一つである。残されていたからこそ、僕らは破壊される前の日常の気配を感じ取ることができた。残さなければ、確実に忘却される。実際に、保全されず更地になっている土地からは何の実感も湧かなかった。かつての姿を知っている人からすれば忘れていくという悲しみがあり、初見の僕らにとってはそもそも感じるものすら見つけられなかった。

そしてもう一つが桜ラインである。
この事業は津波の到達地点に沿って桜を植えていくという事業で、刻々と薄れて消えていく「境界線」を明確に残す目的がある。今回その現場を案内して頂いたが、効果的だと感心する一方で恐ろしさを覚えた。その桜は境界線だった。極めて原始的な、生と死の。その線から上にいた人は助かり、下にいた人は流された。生々しくて、恐ろしい。だからこそ大きな意味を持つし、忘れられにくいであろう。数十年掛かりの大事業だが、遂行すべき大事な事業だと思う。

写真=桜ラインで植樹した桜3本

”当たり前”な非日常

暖かな仮設住宅

その日の午後、集会所にて交流支援活動を行った。クリスマス用の飾り物を手作りしようというものだ。見ず知らずの僕らに笑顔で労いの声を掛け、拙い説明を聞いて熱心に作業に取り組むお婆さん達。また遊びに来たくなるような、そんな親密で暖かな空間だった。

イベント会場にごく自然に次々と人が来てくれたのは、イベントの内容よりもその集会所がその仮設住宅街に相当浸透しているからだと思われる。集会所がことあるごとに地域交流の場を提供し、それが定着したのだろう。

自治会長の佐藤一男さんは笑顔を見せながらも厳しい表情で話す。
「このコミュニティが活性化してきたのは、自分達の活動の1つの成功だと捉えていいと思う。でも逆にここの暮らしに慣れてきてしまっていて、非常事態の仮設住宅暮らしであるはずなのに、それが当たり前のようになってしまっている。それが不安です。」

この仮設住宅には確かに問題が山積していた。まず小学校の校庭を使ってしまっている事が大きな問題で、子供達が校庭を使えない。それに伴って普段の体育の授業や遊ぶ場所、運動会や文化祭などにも悪影響が出るだろう。いや、既に出ているかもしれない。また、仮設住宅は耐震及び浸水の対処が応急的で安心できるものではなく、いつまでも住める環境ではない。

これらの様々な問題点を解決するには、どこかへきちんと移転しなければならないのだが、その前提となる「どこか」を確保できない。津波の到達地点内では家を構えられないので、陸前高田の街は現時点では居住できない状況にある。将来的に街一帯を5m程かさ上げする計画があるが、いつになるかは不明とのこと。

一方、高台の山を削って居住地を作るという計画も上がっている。かさ上げよりは早く実現できそうだが、いずれにせよ10年単位での時間が必要になってきそうだ。

写真=手作りした飾り物を片手に記念撮影 (とんちゃん提供)


写真=東海新報に掲載された記事 (とんちゃん提供)(クリックで拡大)

僕らにできること

問題の一つとして、ボランティアのあり方も話に上がった。その日、道路の側溝を清掃して下さっているボランティアの方々がいたが、いずれはかさ上げで埋まってしまう場所なんだから意味がないと、とんちゃんは言い切った。それに工事車両によって埃やチリが巻き上げられてしまうし、雨が降っただけで側溝にゴミが溜まってしまう。ニーズは他の所にあるのに、それを知らずに不必要なボランティアを紹介されてしまっている、と。

では、具体的にどんなニーズがあるのか。佐藤さんは「あくまで陸前高田の米崎小学校仮設住宅での話」と断った上で続けた。
「ここでは、生活する上での必要最低限の物資は間に合っている為、仮設住宅の交流支援が主なニーズとなっています。もちろん自治会などでも交流イベントを開催しますが、内容が偏ってしまう為、いろんな人に開催してもらえればとても助かります。
それから、仮設で暮らしている住民は極力お金を使わないように暮らしています。その影響で、栄養価が低くなる傾向にあるため、時たまの贅沢になるようなものを支援してもらえると嬉しいですね。ただ、安易な物資支援は地元の営業を阻害する結果になるので、買えるもの (日常的に消費するもの) に関しては原則お断りしています。但し、これはあくまでこの仮設住宅での話であり、未だに水や食料を必要としている地域はあります」

加えて、佐藤さんが懸念されている事を2点だけ挙げさせて頂く。

メディア報道が選挙などで徐々に東北からフェードアウトしていっている。注目を浴びなくなってしまうと、国会予算が削減されてしまうかもしれない。陸前高田はまだまだ復興できておらず、予算を必要としている。他の所も程度は違えど同じのはず。

そして、災害は決して他人事ではないことを肝に銘じて欲しい。過去のデータを見る限り、被災していない都道府県などないのだから。大雨だけで人は死ぬ。他人事だとは思わず、ちゃんと備えていて欲しい。

From Editor

今回陸前高田を訪問して、「やはり遠いな」と感じた。実質丸1日の活動の為に4泊5日という日程を費やし、旅費も総額で約5万円に及んだ。活動をお金で測るつもりはないが、学生の身で継続的に訪ねることができないのも事実。

だからこそ、僕らは僕らでできることを頑張るべきだ。

震災について思うこと。考えること。被災地についての情報を発信すること。応援すること。そしてもし、物資支援やボランティアを行う場合、支援先のニーズをきちんと把握すること。

ずっと言われてきているように、「細く、長い、被災地支援」が今求められているように思う。そして、震災を経験し、多くの人の生活を背負って復興を目指す佐藤さんの忠告を、肝に銘じて遵守することが、犠牲になられた方を追悼することにも繋がるのではないか。災害は、東北だけのものではない。それを肝に銘じて、日々備えておきたい。

桜ラインについて

桜ライン311公式HP

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文責・写真

新舎 洸司 (Hijicho)


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コメント

    • 新舎洸司
    • 2012年 12月 11日

    大阪市立大学新聞 Hijicho の新舎です。コメントありがとうございます。陸前高田に向かう途中に一関市を通過しました。奥地にある為に津波とは無関係ですが、地震の恐怖は大きいものだったと推測します。
    「奇跡の一本松」の辺りはキャンプやスポーツなどもできる公園・広場があったそうですね。その面影のなさが悲しく、寂しいです。
    東北に赴くにあたって、「今更行ってどうするの?」といった声も聞きました。そういった意識の人は少なからずいます。僕自身も明確な理由を言えず、「行きたいから行く。会ってみたい人に会いに行く。」とだけ答えました。
    当然のことかもしれませんが、時を経るにつれて間違いなく、「東北支援」の意識は薄れつつあります。その「意識の薄まり」が回り回って、「復興予算の削減」につながる可能性も否定できません。
    僕のこの記事が、少しでもその歯止めになってくれればと思います。陸前高田に限らず、被災地はまだまだ課題山積です。これからもっと現地の課題を解消する施策に取り組んでもらいたいところですね。

    • アーリーハッチ岩手支部長
    • 2012年 12月 09日

    一関市在住の三浦と申します。 投稿名は、ブログ名です。 気仙沼市を通って何度か陸前高田を歩きました。被災状況を克明にアップしようかと思いましたが、あまりにも酷い状況に一部しかアップしていません。一本松は、野外活動センターとユースホステルの間にあり、子供達とカブト虫を探した街灯の近くにありました。たった一本残った松に「ド根性松」のプレートを掲げたのは東京から帰省した友人でした。その木を伐採する時は報道の車とヘリコプター、それに大勢の人は、観光がてらと思われました。 そのは被災した人々、被災地区の思いと異なるものを感じました。これからは、本当に津波被災地のためになる施策が推し進められることを望んでいます。

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