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「我が輩は市大である」 温故知新:旧市大新聞をたずねて Vol.2


さて、大阪市立大学が誕生して以来30年以上続いた「市大新聞」に掲載された記事を、このHijicho大阪市立大学新聞で復活させていくこのコーナー。今回は、1957年2月に発行された「市大新聞」第98号より。発足から約十年経過した市大の姿を市大の目線から書いた記事を取り上げる。

我輩は市大である
我輩は市大である。「オギアー」と産ぶ声をあげたのは昭和二十四年の春のこと。大阪は真ん中、島之内の元小学校校舎での出来事である。親父の名は「商大」、我輩はイチダイという愛称で大阪市民に親しまれ、今日まで約十年間もの月日を育くんできた。

戦後の日本はどこも住宅難。おまけに当時はまだ食糧難、衣料難の時代であった。ご多聞にもれず我輩も元道仁小学校跡の借家住みの身となり下ったもの。内幕を語れば、立派な杉本校舎は日本の迷誉のためにアメチャンに捧げたとは全くメイヨ?な話。当時、新生日本も若かったが、我輩はさらにツー・ヤング 〔too young〕であった。学生は学生服も持たず、下駄バキで登学し、コッペパンや焼き芋を噛じりながら、「資本論」を読み、ある時には情熱のおもむくままにポリさんと押し合いへし合いをやり、大きなプラカードを先頭に街中をデモッたものだ。それだけに全ての学生は若さと情熱を全身にたぎらせたものだった。

二十八年四月に入ると、杉本校舎の本館と図書館が返還され専門は杉本町、教養は靭〔ウツボ〕へ居を移した。従って中心も道仁から靭へと変り、いわゆる靭時代と相成る。その頃はもう食糧難、衣料難は消え去っていたが、依然として住の悩みはつきなかったもの。

靭校舎は自動車のクラッション〔クラクション〕や市電の走る音に授業を妨げられ、返還された杉本校舎も周囲を金網に取り囲まれ、植民地基地に浮かぶ我輩の分身であった。校舎の周りには外貨稼ぎの大和撫子がたむろし、ヤンキー独特の「ピイー」という口笛が絶え間なく、学生の耳に飛び込んだもの。また当時は我輩が「バイト大学」の貫禄をつけ、あるいは返還運動に全ての学生がメガホン片手に街々を練り歩いた。

やがて三十年九月に至るや、杉本校舎の全面返還がなった。また就職難も永久化せんとした時代である。当時を境いに我輩は大きく変貌していくのである。まず、「アカ教授追放」の声が一部学生の間で聞かれ、実務教育と語学教育が重要視され始めた。結局、三十一年一月に上林氏(商学部)の教授辞任をピークに、学生は「考えぬ芦」と化していった。

三十一年四月、我輩はやっと杉本町に返って来た。学生もやっと落ち着いたが「嵐の後の静けさ」とか全く沈滞した空気が杉本町の空を覆ってしまった。入学してくる学生も入学前から就職のことを頭に浮べ、入学後は単位かせぎと「優」あさりに四苦八苦。

我輩も産声をあげて以来、早くも約十年の月日が流れた。杉本町に見られた米兵舎も取り除かれ、商大時代あった池も野原と化し、田んぼも鉄筋住宅地に変った。

今は商大を思わせる物もほとんど残らない。しかしそれでよいのだ。あくまでも「我輩は市大である。」

文責

田中優衣 (Hijicho)


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