HijichoのLINE公式アカウント
友だち追加数

阪神・淡路大震災から20年 僕が見た、神戸の1.17


皆さんは、阪神・淡路大震災をご存知だろうか。おそらく多くの方が、何らかの形で見聞きしたことがあると思う。では、それを記憶として覚えているだろうか。まもなく24歳になる私の弟は、当時のことをまったく覚えていなかった。また先日とある方から、「大学生の中には、神戸の震災のあとで生まれた子もいますよ。」と聞かされ、衝撃を受けた。
阪神・淡路大震災が起きてから、まもなく20年を迎える。その日を前に、おそらく当時のことを覚えている最も若い世代の一人である自分が、当時を振り返ってみようと思う。

被災時の航空写真
被災直後の航空写真 (神戸市オープンデータより)

年明けすぐの明朝に地震は起きた

1995年1月17日、午前5時46分。私は母の腕に強く抱かれて目を覚ました。視界は遮られていたが、母が発した「いやー、すごい地震や!」という言葉で、私は何が起きたのか理解していたように思う。実際に大きく揺れていた時間は十数秒らしい。しかし私には、ずいぶん長く揺れが続いていたように感じられた。ようやく揺れが収まった後、母と私は寝室から出てリビングへと向かった。するとそこには、テレビ台に乗ったブラウン管テレビを押さえて、私たちに「大丈夫か?」と問うてくる父の姿があった。
当時私が住んでいたのは奈良県奈良市。震源地からは直線距離でおよそ73キロも離れていた。凄まじい揺れを感じたとはいえ、被害といえば棚から少し物や食器が落ちた程度である。すぐに落ち着きを取り戻した我が家は、「何が起きたのか」を知るべく、テレビをつけた。
まず目にしたのは、地震発生時に番組を放送していたスタジオの様子を記録した映像だった。大きく揺れる天井の照明と、悲鳴を上げながら机の下に身を隠す出演者。そして次の瞬間、その光景を記録するカメラ自体も揺れに耐えきれず、床へと倒れた。この映像が何度も繰り返し放映され、その合間に地震の最新情報が逐次伝えられているという様相だった。
 

徐々に明らかになっていく被害の深刻さ

1995年1月17日の、日の出時刻は7時6分であった。発生時刻には暗かった街も少しずつ明るくなり、それにつれて被災状況も明らかになっていった。そしてニュースに映し出された映像は、どれも目を疑う光景だった。分断した高速道路と宙づりになっている高速バス、橋脚が根元から折れて斜めに倒壊している阪神高速、脱線して車体を傾けている阪神電車、そして火災によっていくつも煙があがる神戸の街。そのとき目にした激甚な被災状況は今も忘れることができない。特に私がよく覚えているのは三宮駅周辺の光景である。当時あった旧神戸交通センタービルは、ワンフロアが完全に押しつぶされて消え失せた。同じく三宮にあったそごう神戸店は、建物の一部が倒壊して内部の構造がむき出しになっていた。
多くの衝撃的な光景は、当時幼かった私の目に焼き付き、20年たった今でも鮮明に思い出すことができる。

神戸交通センタービル(被災時)
被災直後の旧神戸交通センターの様子 (神戸市オープンデータより)

阪神・淡路大震災における、死者の数は6,434名、負傷者の数は43,792名にものぼった。また、神戸の街そのものも壊滅的な被害を受けた。住家被害のうち104,004棟が全壊し、半壊したものも136,952棟に及ぶ。さらにこの震災では7,574棟が火災被害を受けた。多くの家屋が倒壊した理由は、「キラーパルス」と呼ばれるタイプの地震動が起きたからだとされている。正式には「稍 (やや) 短周期地震動」と言われ、住宅など中低層建築物の倒壊を招きやすい地震動だと言われている。「キラーパルス」に襲われた神戸の街は、一瞬にして荒れ地と化してしまった。
また発生した火災に対する消火活動も困難を極めた。各地で起こる火災は、あまりに件数が多く火災域も広かったため、神戸市消防局の消防力を超えていた。さらに、緊急通行道路に指定されていた阪神高速道路は崩壊しており、幹線道路も多くの一般車両によって塞がれていたため、消防隊が現場へ急行することもままならない状況だった。水道管が破裂していたため、ポンプ車は放水することができなかった。結果、川を流れる水や小学校のプールの水を使って消火活動が行われたという。
家を失い、避難所や屋外での生活を余儀なくされた避難者は、ピーク時で316,678名を数えた。街のインフラは甚大な被害を受けており、人々は電気・ガス・水道すべてが止まった中での避難生活を強いられた。被災から2か月の間は緊急給水体制が敷かれ、給水車が配備されていた。しかし十分な飲み水の確保は難しかったようで、母が友人宛にミネラルウォーターを送っていたことを思い出す。また当時は真冬の一月である。電気とガスが止まっていたために暖房設備が使えず、寒さに耐えながらの避難生活を送ったという。さらに何度も被災地を襲う余震が、人々の不安に拍車をかけた。

被災地へ赴いた父

私は被災地を遠くから見守るだけだったが、家族に一人だけ、震災直後の被災地に直接関わりを持った者がいた。医療職に従事する私の父である。隣接県の病院に勤務していた父は、医療チームの一員として現地に赴いた。現地に泊まりこむということで、荷造りをしていた父と母の話を聞きながら、私は父が誇らしかった。
あの時の話を20年ぶりに父に尋ねたのだが、そのときのことを父は鮮明に覚えており語ってくれた。

「たしか僕らは泊まるところが用意されててん。先遣隊というか、前に行った人たちは船で寝泊まりしてたんや。」
-ボランティアの宿泊所として、船を用意してたのか?
「なんでやねんな。陸路は寸断されてるんやから、船で現地に行くんや。僕らも船で行ったんや。僕らが行った頃は、持病を持ってた人の治療が大変でなぁ。高血圧で薬飲んでた人とかは薬が無くて。一晩でカップ麺の容器半分くらい血を吐きはってな。ほんまにかわいそうやったわ。」
-薬も足りへんかった?
「足りへんしやな、そんなん現地に行かんと、どんな人がいて、どんな治療をしてたか分からんやん。聞いても何の薬を飲んでたかなんて覚えてないし、大変やったな。薬も避難所の体育倉庫みたいな所に保管してあったりして、必要なのもらいに行ったりしたわ。」

服用薬の履歴が分からず、医療ボランティアが治療を施せなかったというのだ。これは余談になるが、服用薬の履歴管理には「お薬手帳」の活用が効果的である。薬剤名やその用法・用量などという処方内容、副作用歴やアレルギー歴、さらに主な既往症も記録される。記入は有料なので活用するかは患者本人の判断となるが、災害時に思わぬ形で身を助けるかもしれないということを覚えておきたい。

がんばろうKOBE

さて、震災発生から神戸は驚くべき早さで立ち直りを見せる。インフラはおよそ3ヶ月ですべてが復旧した。鉄道各社も、3月31日に運行が再開された神戸市営地下鉄を皮切りに、81日目には山陽新幹線が不通区間を解消するなど、8ヶ月以内にすべての鉄道が復旧した。あの倒壊した阪神高速道路神戸線も、震災翌年の9月30日に復旧を遂げた。
また、当時は神戸に本拠地をおいていた野球チームのオリックス・ブルーウェーブは、ユニフォームに「がんばろうKOBE」の文字を掲げてシーズンを戦っていた。その言葉は、決してチームメンバーのみの想いではない。被災した人々みんなの心を、熱意を表した言葉だった。

現在のそごう神戸店
写真=現在のそごう神戸店 (筆者写す)

震災から3年ほどたったある日、神戸に住まう友人を訪ねたことがある。三宮駅界隈で遊んでいたとき、まだ新しい灰色のビルが目に入った。友人に尋ねると新しい神戸交通センタービルだという。被災した建物は取り壊され、同じ場所に新しく建て直されていたのだ。感動とまではいかなかったが、胸の高鳴りを感じたことを覚えている。
今、神戸の街は以前よりも現代的になり、阪神・淡路大震災の爪痕などどこにも感じられないように思われる。しかし、良く見てほしい。たとえば、そごう神戸店の建物は外壁に真新しい部分が見受けられる。もちろんそれは、震災で倒壊した部分を修復した箇所である。また現在使われている阪急神戸三宮駅の駅舎は、当初「仮駅舎」として建てられたものであり、今後の再開発が計画されている。綺麗に見える街並みは、がんばって立ち直ってきた努力の結晶であり、そして今もなお闘い続けている姿そのものである。

忘れないで、1.17

綺麗な街並みを取り戻したことは、神戸好きの一人である私自身にとっても大きな喜びである。だがしかし、本当にすべて消し去ってしまって良いのだろうか。神戸の街を襲ったあの震災を忘れ、風化させてしまうことにはならないか。
震災の記憶が薄れることで、被災地が得た多くの経験も活かされず埋もれていくように思えてならない。震災から何を教訓として得たのか、どのように備えていくべきなのか、私たちは本当に理解できているのだろうか。
そして、あの日の神戸では多くの人々の命が奪われ、多くの人々の家族が、仕事が、生活が奪われた。それは紛れもない事実であり、確かに神戸の地で起きていた。「ああ、そんなこともあったね」などと昔話にしていいのだろうか。振り返ることをせず、思い出すこともしなければ、人々はやがてその辛さや痛みを忘れていくのではないか。

神戸ルミナリエ消灯式の様子
写真=神戸ルミナリエ消灯式の様子 (筆者写す)

震災が起きた1995年12月以来、毎年開催されている『神戸ルミナリエ』は、今や多くの人が知るイルミネーションのイベントとなった。そして、その本来の目的が「阪神・淡路大震災犠牲者の鎮魂」と「震災の記憶を後生に語り継ぐこと」であるということも、もはや周知の事実となっている。もちろんイベントを楽しむことは大いに結構である。しかしそれだけではなく、神戸の地で起きた震災という事実を振り返り、思いを馳せ、そして、次の世代へ語り継いでいくことが、生きる我々の務めであると私は考えている。
昨年、初めて『神戸ルミナリエ』の消灯式に立ち会った。多くの人が詰めかけ、係員の方の掛け声に倣って犠牲者に哀悼の意を示す場であった。そこに私がいられたこと、また、気持ちを同じくして祈りを捧げられたことを感謝したいと思う。
あの日から数えて20年目の1月17日がやってくる。厳かな気持ちで、その日を迎えたい。

参考文献・資料・HP
宝塚市消防本部・宝塚市消防団 (1997)「阪神・淡路大震災 消防活動の記録」宝塚防火協会
兵庫県 (2014)「阪神・淡路大震災の 復旧・復興の状況について」
眞柄ほか (1995)「ライフライン-水-と阪神・淡路大震災」『公衆衛生』第44巻, 第3号, pp300-306, 国立保健医療科学院
神戸ルミナリエ公式HP (http://www.kobe-luminarie.jp)
神戸・淡路大震災「1.17の記録」(http://kobe117shinsai.jp)

文責

大谷 学 (Hijicho)


関連記事

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

Hijicho on Twitter

ページ上部へ戻る