はじめに
いろんな人の話を聞いているうちに、私的な芸術空間 (芸術の及ぶ範囲) があまりに狭いと思った。そこで、より豊かな視野があってもいいのではないか?と思い、本文を寄稿することとした。
1. 私の考える芸術像
まず、抽象芸術の一般的な定義は、事物そのままの形から外れたような芸術や、具体的な対象をかきうつすことのないような芸術など、である。具象芸術は、具体的な対象物を極端な捨象なしに具体的に描いた芸術などのことを意味する ・・・らしい。
抽象芸術と具象芸術の違いの設定に意味はない
しかし、私は考える。抽象芸術と具象芸術に対して違いを設定、あるいは対比させることは無意味な行為であると。 根拠としては、そもそもの解釈の違いの数だけ、芸術作品は変化しうるからだ。例えば女性を描くことを想定しよう。この時、ある人は彼女の腰のラインに惹かれて、曲線だけを作品に反映させるかもしれない。また、ある人は彼女の全体としての何とも言えない感覚をくみ取って、所謂、写実として描くかもしれない。また、別の人は彼女から霊感を得て、別の物体を制作するかもしれない…etc
このように、女性を描くだけでも、様々な感じ方により、様々な作品が出来上がるのである。ここにおいては、もはや抽象空間や具象空間の入る余地などない。そのような境はなく、実際は解釈の違いというだけである。 そういう意味で、違いを設定したり、対比させたりするのはナンセンスだと私は主張するのである。
芸術とは、きれいなものに限らない
また、別のことになるが、芸術の定義を「きれいなもの」と認識している人が多くいるだろうと思う。それは、よくある感覚である。ただし、「きれいなもの」は芸術を構成する一つの美的な感情であって、それが全てではないということを私は強調したい。 岡本太郎の作品を間近で見てほしいのだが、彼の作品は決して心地よい作品などではない。むしろ、人の心を傷つけかねない気味悪い嫌な作品だと私は思う。むしろ、見て後悔したという人もいるだろう。
かの有名なゴッホの作品 (特に後期作品)は、そもそも作品としては伝わってこない。作品というより、エネルギーそのものという感じに私には思える。
まとめ
芸術とは、「きれいなもの」だけではないのである。 人が思いつく限りの可能性全てが芸術に成りえるのである。そのような目線に立たないと、「きれいでない」絵を見たときに戸惑ってしまうだけである。(芸術の定義の狭さゆえの齟齬が起こる) 芸術とは、もっと人間的で複雑に入り組んだものだと私は思うのである。
2. 大阪芸術センター
次は私の紹介したい芸術の場―大阪芸術センター―について述べる。 このセンターではヌードデッサン会を週に2,3回行っている。デッサン会にはとても個性的な作品を作る芸術家さんから、私のような初心者まで幅広い層の人が集まる。センターでは決して他人の作品を自分色に染めるような強制は行われず、それぞれの表出したい感覚を追求していく。
実際問題、多くの団体で (芸術に限らない) 多元性 (団体の意志)を実現できていないように思う。ここは自由な雰囲気の実現できた団体であると思う。 作品を見れば、最も分かりやすい根拠となるのだが… そう。作品を見てもらいたい。芸術は見てなんぼだと思うのだ。写真で作品を見た気になっている人がいるだろうが、写真と実際の作品では発色も違うし、大きさも違うし、絵肌も違うし、…etc。
百聞は一見にしかず。私は彼らの実施する展覧会「5人の人物表現展」をおすすめする。詳しくは、同タイトルでインターネット上で検索してみてほしい。
3. ダダ運動がもたらしたもの
私はダダという芸術運動を知らない人たちがあまりに多いことに驚いた。この運動を知らずに芸術作品をこれから見ていくのは、非常にもったいない。 ダダイスムを知るためには、ニヒリズムを知ることが不可欠であるので、まずそこから (私の知る限りの範囲で) 話したいと思う。
ニヒリズムとは
「神は死んだ」で有名なニーチェの生み出した思想がニヒリズムである。ニヒリズムとは一般的に、だれもが受け入れている道徳や倫理を否定する立場であり、虚無主義ともいわれる。要するに、真理は存在しないということを主張している。 (ここでいう真理とは絶対的価値のこと))「神は死んだ」とは、最高の価値は失われたということを主張した発言である。 (ただし、勘違いしてはならないのが、これは別に神そのものを否定した発言ではないところである。) ニヒリズムが色濃く反映されているのは、我々の実生活においてであると思う。
例えば、「5月病」である。この時期じゃないにしろ、一度くらい、「自分とはなんだ?」や「今していることに意味があるのか?」(無を感じる)などを考えたことがある人がいると思う。ニヒリズムとは、そういった命題を生み出す主義でもあるのだ。 ニヒリズムとは、おおまかに言うと、このような感じである。もっと知りたいという読者の方は、学情で関連図書を読んでもらいたい。
「ダダイスム」とは
さて、ここからが重大なテーマ「ダダイスム」である。ダダイスムとは、既存の芸術や秩序、常識に対する、否定、攻撃、破壊といった思想を根底とする。 (なお、ここでは、ダダイスムの芸術的側面のみを議論する。)ダダの基本理念は4つである。
まず、偶然の原理であるが、これはダダイストに最も好まれた。芸術の手法や理念といったものは過去における実践や経験の積み重ねによって形成されてきたものである。だから、習慣化された方法は結局過去の産物ということである。これは言葉の本来の意味において創造とはいえない。真に新しいものを作るのであれば、伝統的手法は排除しなければならない。よって彼らは偶然を利用した。ハンス・アルプの「偶然の法則により配置された四角のコラージュ」が代表的な作品である。
次に自発性の原理である。これは偶然性の原理と共通するところがあるが、自発性というのは詩人、芸術家の人間の内部から発せられるところに特徴がある。 (説明を省く)
3つめは、原始への回帰である。ダダイストは伝統的文化 (ブルジョワ社会がつくりだした文化的要素など)に対抗するために、黒人芸術やエジプト芸術の伝統を受け継いだ。これは、既存の芸術に対抗することにもなった。
最後に、行動の原理である。「思考は口のなかで作られる」というのがダダのキャッチフレーズであった。ダダの詩法もこの原理にしたがっている。はじめにことばがあり、行動がある。その結果は予測することはできない(笑)。有名な作品としては、新聞記事の全ての単語をまず切り出して集める。その中から、ランダムに単語を取り出し、それを組み合わせて詩をつくったという作品があげられる。ことばと行動の偶然の接合や連関によって、思いがけない新しい意味が発生するのであった。
ダダについてのまとめ
明らかに既存芸術とは向かう方向性の違うところが、ダダである。彼らにとって、偶然などの不確定な性質こそが、真に魅力的なものであった。 ダダイストたちは、「芸術は死んだ」と主張したり、既存の芸術作品を小馬鹿にしたような反芸術作品をうみだしたりもした。最も簡単な例として私が思いつくのは、「L.H.O.O.Q.」という作品だ。この作品はモナリザの複製画に木炭でひげを生やしただけという作品だ。モナリザとは、言わば、その頃 (1900年ごろ)までの芸術の象徴である。それに対して、ひげを生やすというのは、既存の芸術のあからさまな侮辱につながる(既存芸術の全否定)。
ダダイスムが成し遂げた、芸術空間の拡張
ここまでを聞いていると凄い謎の団体という感じがする。それには違いないが (笑)、彼らの運動がもたらした結果は何なのか。 彼らは、マンネリ化した芸術を変えた。既存の芸術とは別の芸術を生み出した。もっと、偶然的に作られるような作品などを制作した。なぜ、既存の芸術だけが絶対に素晴らしいものと言えようか。この運動は、結果として、ニヒリズムでいうところの (既存の芸術の)絶対的価値の否定につながった。それにより、既存の芸術とダダは均衡を保ちだした。 (優劣の解消により、)そして、芸術空間は拡張されていった。
ダダがただのクレイジーな団体だと考えている人は、ここのところを理解していない。 ダダイストはとりわけ、破壊と否定の形式によって、既存の作品を全否定する傾向にあるが、それは結果として、芸術空間の拡張につながった。なぜなら、絶対的価値に対抗するための最大の形式として、彼らは破壊と否定というものを行い、絶対的価値を揺るがしたのだから。ダダの運動は、とてもニヒリズム的である。 私は不思議だと思うことがある。ダダイストたちによる破壊と否定の形式は、その当時の芸術の全否定なのだ。それにも関わらず、実際は現代における芸術空間の拡張に成功したのだから。 (芸術技法の拡張の例としては、コラージュやフロッタージュ、偶然の原理の利用など)既存の芸術と反芸術は結合した。それは、鑑賞者の視野をより広くする結果となり、さらに、制作者の芸術の創造に大変有意義な結果をもたらした。
ニーチェとダダイスムが現代に残したもの
その意味で、ニーチェの思想「ニヒリズム」というのは、もっと評価されていいと思う。この虚無主義がなければ、ここまでダダが激しい運動を行えたとは、とても思えない。 また、このダダの批判的態度は芸術においてのみ、発揮されるのではない。実際、ダダイストは社会批判も行っている。ニヒリズムの到来により、我々は物事を多様な解釈によって考えられることに気が付き始めた (つまり、真理はないということである) 。社会に対する疑問を持つ心。こういった懐疑的な目。これは必要な力ではないか。そういった意味で、ニーチェ哲学というのはより現実的で、ポジティブだと私は考える。 勘違いが起こらないためにあらためて言うと、ダダイストは既成の芸術感を否定したが、それは芸術空間を広げた。 彼らは常識と考えられていたものを「おかしい!」と言えた、エネルギーあふれる人間たちなのである。 彼らの狂熱は時代を動かしたのである。今の現代芸術の基盤には明らかにダダの、ダダイストたちの努力が根づいているのである。 実際、ニーチェ哲学やダダイスムはもっといろんな意味合いを持つのだが、この記事では収まりきらなかった。参考文献を用意したので、興味を持った方は調べてみてはいかがか。。
参考文献
ニーチェ すべてを思い切るために
貫成人『力への意志』
ニーチェを学ぶ人のために
青木隆嘉『図解でわかる!ニーチェの考え方』
富増章成『ダダ・シュルレアリスムを学ぶ人のために』
濱田明 田淵晋也 川上勉
最後に
ダダのリーダーであるトリスタン・ツァラは言った。 「真のダダは、反ダダだ」 つまり、今でこそダダイスムはただの運動としての認識が強いが、実際 ダダとは「無」なのである。全くの意味のないくだらないものなのである。 真のダダは中身のない「自由」なのである・・・だから、エネルギッシュに運動が行えたのかも・・・
文責
現代芸術サークル「デミアン」会長
芭瀬田義人 (ばせだよしひと)
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