HijichoのLINE公式アカウント
友だち追加数

パラドックス


「飛辞書 ~文理を越えるその言葉~」は、あなたの学科だけで使われているような特殊な言葉を取り上げ、分かりやすく説明していくコーナーである。「特定の学問分野だけで使われている言葉が、その分野を飛び越え、みなさんの知識になる」をコンセプトにしている。

今回は論理学の分野で使われる「パラドックス」 (paradox)という言葉について取り上げる。

パラドックスとは?

パラドックスとは「妥当に思える推論から受け入れがたい結論が導き出されること」を意味する言葉である。噛み砕いて言い換えると、「正しく議論を展開しているのに導き出された結果が奇妙なことになっている」ということである。
この「受け入れがたい結論」には、「論理的に矛盾が生じている場合」と「矛盾はないが、直感的には受け入れがたい場合」 (これを疑似パラドックスと呼ぶ場合もある)との二つの場合がある。

定義だけ述べていては非常に分かりづらいので、このパラドックスの一例を取り上げてみよう。

〇村の理髪師のパラドックス
——ある村に、その村でただ一人の理髪師がいて、自分で自分のヒゲを剃らない村人全員のヒゲを剃るとする。では、この理髪師は自分のヒゲを剃るだろうか?

仮にこの理髪師が自分のヒゲを剃ったとしよう。そうすると、彼は「自分で自分のヒゲを剃らない村人全体」から除外されてしまうので村人でなくなり、他人のヒゲを剃る必要がない。もちろん自分のヒゲも剃る必要がなくなる。
次に、自分のヒゲを剃らないとしよう。そうすると、彼は「自分で自分のヒゲを剃らない村人全体」に含まれてしまう。よって、理髪師にヒゲを剃られる必要ができてしまう。しかし理髪師は今、自分のヒゲをそらないとされている。

これらは矛盾している。

〇クレタ人のパラドックス
この例は紀元前にいたギリシャの哲学者エピメニデスにまつわるエピソードで、「ウソつきのパラドックス」等とも呼ばれている。
——クレタ人のエピメニデスは「クレタ人はウソつきである。」と言った。

もしこの発言が正しく、クレタ人がウソつきであるならば、クレタ人であるエピメニデスによってなされたこの発言も真っ赤なウソになってしまう。つまり、「クレタ人は正直者である。」となってしまう。これは最初の前提である「クレタ人はウソつきである。」ということに矛盾してしまう。
では、この発言が偽りで、クレタ人はウソつきでなく正直者だとすると、エピメニデスによってなされたこの発言も正しいことになり、「クレタ人はウソつきである。」となる。

やはりこれらも矛盾している。

以上の2つの例が「論理的に矛盾が発生している場合」である。
次に、「矛盾はないが、直感的には受け入れがたい場合」について観てみよう。 少し数学的な要素を含むことになるが、嫌悪せずに拝聴していただきたい。

◇ヘンペルのカラス
——命題「すべてのカラスは黒い」ということを示したい。だが、世界中にいるカラスを捕らえて一匹一匹観察し、すべて黒いということを確認するのは現実的に考えて不可能である。しかし、一匹もカラスを捕まえることなく命題を証明する方法が存在する。それは対偶命題「すべての黒くないものはカラスでない」ことを示せば良いのである。

対偶命題 (contraposition)とは、「PならばQである。」という命題があるとき、「QでないならばPでない。」という命題のことであり、命題論理の規則として命題と対偶命題の真偽は同じであることが約束されている。
こうすることにより、カラスについて主張したいにもかかわらず、一匹もカラスを調べることなくそれを証明することができるのである。 (現実ではすべての黒くないものを調べるものも不可能であるが)

◇誕生日のパラドックス
この例はもしかすると皆さんも一度は聞いたことがあるかもしれない。これは確率にまつわるパラドックスである。
——生徒の人数が23人のクラスがある。このクラスに在籍する生徒の誕生日が1組でも同じになる確率は約50%である。

1年は365日存在し (都合上閏年の場合を除いて考える)、同じ誕生日である幅もその分存在するにもかかわらず、たった23人の学級で1ペア誕生日が同じである確率は半分以上なのだ。直感的にはとても信じがたいが、理論的にはまったく正しいのである。
その証明は、「少なくとも1組誕生日が同じになる場合」は「1組も誕生日が同じにならない場合」の否定(補集合)になる事を利用する。
「1組も誕生日が同じにならない場合」とは、「すべての人の誕生日が異なる場合」である。
その確率は、23人がそれぞれ誕生日となりうる場合における確率をかけたものであり、それは
式1
であるので、求めたい「少なくとも1組誕生日が同じである確率」は
式2
となり、確かに約50%となっている。

以上が「矛盾はないが、直感的には受け入れがたい場合」の例である。

矛盾の回避

これまで紹介してきた例以外にもパラドックスは数多に存在する。数学の論理学―これを数理論理学 (mathematical logic)という―を専攻する者はこのようなパラドックスを含む、論理規則やそういった体系について日々研究しており、そこで発見された新たな法則などが、自然科学を含む論理的に物事を考える学問全般の基盤を保証するものとなる。なので、こういった論理は学問にとってその存在を確立するための非常に重要なツールであり、要となる。
実際、上の「村の理髪師のパラドックス」や「クレタ人のパラドックス」のような論理矛盾を孕むパラドックスは「ラッセルのパラドックス」という数学の集合論で表されるものに一般化できる。そして、そのパラドックスを回避するための手法として「公理的集合論」という学問が開拓された。この分野は、「公理」と呼ばれるいくつかの最小のルールを決め、それを組み合わせて論理規則を作っている。この公理を集めた規則体系、例えば「ZFC公理系」と呼ばれるルール体系では、ラッセルのパラドックスを引き起こすような集合の存在をそもそも認めない。こうすることによって矛盾を含むパラドックスは回避されている。

終わりに

パラドックスというものは日常にも潜んでいる。日常の中ではその矛盾に気がつかなかったり、とりわけ重要視することもなく物事が進められている。しかし、こういったパラドックスに内在する論理規則のような複雑そうに思える体系を理解しようとすることは、物事を論理的に考えるトレーニングにもなる。皆さんも思考を巡らせてみてはいかがだろうか。

参考文献

吉永良正『ゲーデル・不完全性定理』 (BLUE BACKS)

文責

大司雄大 (Hijicho)


関連記事

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

Hijicho on Twitter

ページ上部へ戻る