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大阪歴史探訪第三回 安治川トンネル―日本初の河底トンネル―


 古代には難波宮がおかれ、江戸の世には天下の台所として栄え、明治以降には近代都市として発展してきた歴史あるモダン都市大阪。ここではそんな大阪の歴史に焦点を当て、知られざる大阪の魅力を発掘すべく、大阪の歴史にまつわるいろいろなものを紹介していこう。

 今回は、今も現役の一風変わった河底トンネル、安治川トンネルを紹介する。

 安治川トンネルは、大阪市西区九条と此花区西九条をつなぐトンネルで、昭和19年 (1944) に日本初の河底トンネルとして完成した。これは、交通量の増加に対応するために、当時の最新技術を用いて10年がかりで造られたもので、源兵衛渡などの渡船に取って代わるかたちで開通した。このトンネルは、エレベーターまたは階段を用いて川底へ移動する仕組みになっており、車両用のエレベーターも存在した。車両用エレベーター及び通路は、昭和36年には一日約1200台が利用するなどかなりの利用者が存在したが、下流に安治川大橋が架けられて以降徐々に減少し、またエレベーター待ちの渋滞や主にトンネル内での排気ガスの問題、さらには車両の大型化も相まって昭和52年に廃止された。ただし、建物自体はそのまま残っているため、現在でも車両用エレベーターの痕跡を見ることができる。

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写真=車両用エレベーター跡 (九条側)

 しかし、なぜ最初から橋を造らなかったのであろうか。これにはトンネルが造られた当時の状況が密接に関わっている。まず、このトンネルがある安治川は、工業地帯の間を流れており、船舶の往来も盛んであった。時には大型の船舶が通行することもあり、それらに対応しなければならなかった。実際に同じ安治川に面した川口居留地のあった川口町には磁石橋と呼ばれた可動橋が存在した。しかし費用の問題や、洪水の際に流木などをせき止め、市内への水の流入を誘発する恐れがあった。もう一つは橋の高さを上げる方法で、現在では比較的一般的であるが、この方法は高さを稼ぐためにそれなりの長さのアプローチが必要になり、工事も大規模なものになる。これは周囲に工業地帯を抱える安治川には少々不適切であり、さらに当時は戦時中であったことも原因としてあげられるだろう。おおよそこれらの理由から当時は橋ではなくトンネルが選択されたと考えられる。

 現在の安治川トンネルは歩行者及び自転車専用となり、ほぼ真上に阪神なんば線が通っている。完成当時から変化した部分も多いが、今なお多くの人が行き来している。一度エレベーターで川底におりると独特の空気が漂うトンネルを渡りつつ、安治川の歴史に思いを馳せるのも面白いだろう。
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アクセス

大阪市営地下鉄中央線九条駅
JR大阪環状線西九条駅
阪神なんば線九条駅
阪神なんば線西九条駅

文責・写真

古迫肇 (Hijicho)


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