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教授が語る夢 第16回 文学部 増田聡教授③


本学のさまざまな教授にインタビューを行い、それぞれの夢や思想を伺うことで教授自身のことを追及していくこのコーナー。2年ぶりにして第16回となる今回は、文学部文化構想学科表現文化コースの増田聡教授にお話を伺った。3回に分けて掲載しており、本記事は3つ目にあたる。(1つ目はこちら、2つめはこちらから)

 

 

 ――ツイッターで精力的に情報発信されていますが、その原動力は何ですか。

 

 大学教員でツイッターやっている人はかなり多くて、僕などより有益な情報を発信されている人も多いです。ただ、インターネット自体は僕はかなり早くから使っていて、大学院生の頃から自分のウェブサイトを作っていました。僕は中高生の時から雑誌やラジオへの投稿に熱中してまして、思えば自分がいま現実に暮らしている空間と異なったところの人々とコミュニケーションしたかったんでしょうね。その延長でSNSも日常的にやっています。クソリプ(ツイートに寄せられる、見当はずれであったり気分を害する他者からの反応)とかも飛んできたりもしますが、時々面白い人や新しいことに出会って面白いことが起こったりもする。

 「情報」って、受け取って溜め込むだけの人のところには絶対回ってこないんです。自分から何かを発信すると向こうから別の情報が返ってくる、という構造になっている。学生によくある勘違いがあって、知識を貯水池の水と同じようなものとして捉えている人がいて、これだけ本を読みましたとか、これだけ知ってますとか、知識を量的な水準で捉えていたりする。そういう学生は勉強熱心でも経験則上あまり伸びない。そうじゃなくて、知識って「部品」なんですよね。同一の部品だけがたくさんあっても機械は動きませんが、そのたくさんある同じ部品のいくつかを他の人が持っている別の部品と取り替えっこして組み合わせていくと、徐々にそれらが有機的に結びついていって、しっかりと機能するようになっていく。

 情報も同じなんです。一人でため込んでいてもその情報には意味がない。交換することで情報は互いに組み合わさり、豊かになって意味をなすようになる。「僕はこんなことを今日知ったけど、あんまり役に立たないかもしれない。だけどなんか面白いよね」っていう情報をポンと出しておくと、その情報に価値を見いだす人がいて、その人にとっては役に立つ情報だったりするわけですよ。するとそこから「実は僕のところではね…」「え、マジ?」とかいった具合にどんどん知見が膨らんでいくんですよね。それがネガティブな形であらわれると炎上とかクソリプとかになるわけですが、物事なんでも表裏一体でして、ポジティブなこともやっぱり起こるんですよね。何か言うと9割はクソリプが返ってくるけど、1割はおもしろくて役に立つ知見が返ってくるといった感じ。その1割のためにやっています。

 あとは、自分の今いる立場と関係ない情報発信の回路を一つ持っておくと、例えば僕がこの組織で誰かの陰謀にはめられてクビになったりしそうな時に役に立ちますよね(笑)。世間の多くの人が見ているところでその陰謀を公表するぞ、みたいなかたちで、世論に訴えることがいつでもできると考えると気が楽ではある。まあそういうことにならないようにいちおう真面目に働いていますけど(笑)。

 そういった個人発信のメディアというものが社会に影響を与えた大きなきっかけの一つとして、1999年の東芝クレーマー事件というのがあるのですがご存知ですか?東芝のビデオデッキを買ったユーザーが、カスタマーサービスで修理依頼したらひどい扱いや暴言を受けて、それを録音してウェブサイトで公開したら大きな反響を呼んだ、ということがあった。今でいう炎上ですね。その後、これまで泣き寝入りするしかなかった「大きな組織からのひどい扱い」をネットで表沙汰にして世論に訴えることが増えた。ポジティヴに言えば不公正に対して個人が抗議できる手段を得た、ということになる。もちろんその反面、それに乗じてわがままを通すような消費者が増えたりした側面はあるのかもしれませんが、これ以降、企業のカスタマーサービスって格段に良くなりましたよね。

 かつて個人が大きな組織の不公正を訴える手段は新聞への投書くらいしかなかったわけですが、そうではない発信の手段が広く普及した点で、現在の社会は20世紀までの社会とは異なった構造になっていると思います。教員によってはSNSを使うなとか論文のアイディアをネットに書かない方が良いとか、知識を囲い込むような指導をする先生もおられますが、僕はあまりそれには賛同しない。若い人は、情報を他人にパスすることで、他人から何か別の情報が返ってくる、という社会環境に慣れておく方が良いんじゃないかなと思っていますね。それとも関連して、僕はネットを匿名で使わない方がいいよ、と学生や院生にはアドバイスしてます。自分の社会的なアイデンティティとネット上のアイデンティティは一致させといた方が良いよ、ネット上のアクションが現実の自分に返ってくるからアホな間違いはしなくなるし得するよと言ってるんですけど。まあその辺は新しいメディアで使い方が定まっていないこともあって、なかなか難しいところはありますよね。

 

増田先生の著書=片山翔太撮影

 

 

 ――コロナ禍で大学が大きな転換を迫られていると思いますが、今後の大学の在り方についてどうあるべきだとお考えですか。また、大学生活において学生に伝えたいことがあれば教えてください。

 

 学生さんに関しては、大阪市立大学だから、なのかもしれないですけど、皆さん真面目だなと感じることがますます増えました。世代が30年離れているせいかもしれませんし、単に僕が不真面目すぎるだけかもしれませんが(笑)、まあ教師に不真面目な顔を見せないことに関する能力が高まったというのが正解かもしれないですね。裏ではいろいろ不平や文句を言っているかもしれませんが(まあそれが健全です)、教師の意図を汲み取ってそれにスマートに従う能力はほんとうに高いなあと感心することがしばしばある。

 例えばレポート課題などに「先生のおっしゃるとおり」的なことを書いてくれる学生も多い。でも大学教員をそういうかたちで学生が甘やかしちゃダメですよ(笑)。そんなお世辞で勘違いしてしまう教員もいるかもしれませんが、少なくとも僕が学生の頃は、「大学の教師とは学問上の競争相手として対するべきだ」という気風がいくぶんかはありました。実際には学生は未熟な若造ですから、「競争」なんてちゃんちゃらおかしくて成り立つわけないのですが、少なくとも「そういうつもり」で講義や演習には臨むべき、という気風が大学生の間にはあった。大阪市立大学でもそれは同様だっただろうと思います。

 教育って基本的に、先に死ぬ人がこれから生きていく人に知識や技術を伝えていくことで、自分が死んだあとも人類社会を集団的に存続させるためのものじゃないですか。ということは、今から死ぬ人よりも今から生きていく若者の方が「少し有能」になっていかなければならないわけです。経済成長がないと社会が持続できないのと同様、知見の伝承も均衡状態だと長期的にはかならず衰退していく。だから、我々の世代を超えて君たち学生が賢くならないと、教育による社会の再生産はうまくいかないわけなんです。その意味では、教員自身が持っていない能力を、学生に獲得を要求することも教育には必要になってくる。先生は書類の締め切り守れないんだけど、次世代を担う君たち学生は守れるようになってね、みたいな(笑)。

 ですから教育の基本的な構図としては、先行する年長世代の「おかしいところ」「ダメなところ」を批判して乗り越えて改善していくということが極めて重要だと思うのです。でも、今の教育ってそうではなくて、上の人に従って、それに従順になる能力を競っている部分があって、それは良くない。授業受けている教員の著書を読んで授業で直接批判してやる、みたいな生意気な学生のノリはかつては普通だったのですが、今の学生はびっくりするくらい教員を批判しません。

 中学校や高校の内申点重視とかほんとにだめですよね。管理教育が完成しちゃってるじゃないですか。先生に気に入られるように忖度することばかり上達して、それで大学に入って「自分の頭で考えろ」って言われても考え方が分かんないでしょ。それはほんとうに良くないと心底思います。学問とクイズはぜんぜん違うのに、「先生が隠し持っている正解を獲得する」というような感じで両者を同一視する学生も多いですよね。さっきの繰り返しですが、正解の知識をどれだけ持っているかといったかたちで、知を量的に捉えてしまう傾向がどんどん助長されているように感じる。

 若い学生は年長者に「物事を知らない」と批判されることがよくありますが、決して知識量が減ったわけではないと思う。年長者が経験してきた時代の社会とはメディア環境が変わったことで、「知ってる物事」の領域がかつてと違う方面に広がっているのだろうと思います。音楽や映像など、かつて流通手段が限られていた文化領域に関する知識やセンスは圧倒的に向上しました。しかし、上の世代がもつ知識や理論や倫理を批判して乗り越える力はどうかな、と思う部分はあります。

 2年前、1年生向け授業の感想レポートで「先生のおっしゃるとおりです」と僕の話を褒めるお世辞ばかりだったので、面白くないと思って、次回の授業の感想レポートは絶対に教員を褒めるな、僕が話したことを必ず批判しろよといったら、こんどは全員が丁寧に批判してくるんですよね(笑)。要するに、「どっちにもなれる」んですよ。自分の主張と教員の主張の食い違いや摩擦から自身の考えを立ち上げるのではなく、教員の言うことに従って自分の「主張」を操作する。教員が講義で話した内容を自分の中で咀嚼して、これはちょっと同意できないとか、何か違和感を感じるところがあれば、その部分をテコにしながら教員とは異なる「思想」を形作っていく、そういう契機として講義ってあるわけでしょ。その違和感みたいなものを単位なんかのために簡単に手放さない方がいいのにな、と感じるところです。

 ただ、いま言ってるのと同じようなことは、僕らが学生の頃も教員から言われてきたことなんですよね…。教員が「今の学生はなっとらん」というのは、その中身は違えどずっと繰り返されてきたことに過ぎないのかもしれません。まあ、こんなくだらない繰り言を言っているロートル教員の「学生はなっとらん」を批判して乗り越えて、僕らよりも有能で賢い人物になっていってくれたらええな、と思っていつも授業はやってます。

 教員は「おもろい学生」というのを常に求めています。「おもろい」というのは勉強がよくできるといったことでは全然ない。自分がどういう生き方をするかについて、自分の頭で幅広く、あるいは深く考えていて、それを独りよがりではないかたちで表現できる学生、といったらいいかな? 若い人を教育する目的は、社会を維持する人材、いやこの言葉は好きじゃないので「人物」と言いましょう。われわれが年老いたり死んだりした後に社会を維持していける多様な人物たちを育てるためです。だから、今の年寄りが考えてない大事なことを考えようとする学生が少しでも増えてほしい、ということは常に願っています。

 

 

取材            文責

片山翔太(Hijicho)       羽戸さくら(Hijicho)


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