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教授が語る夢 第16回 文学部 増田聡教授①


 本学のさまざまな教授にインタビューを行い、それぞれの夢や思想を伺うことで教授自身のことを追及していくこのコーナー。2年ぶりにして第16回となる今回は、文学部文化構想学科表現文化コースの増田聡教授にお話を伺った。3回に分けて掲載しており、本記事は1つ目にあたる。

増田聡先生=片山翔太撮影

 

 ――授業内でコピー&ペーストでレポートを書くという課題があると聞きました。その作業を通じてオリジナリティが生まれるメカニズムを知る意図があるとのことですが、学生の反応はどのようなものですか。

 

 学生はみんな困ってますね(笑)。このレポート課題は何年か前に話題になって、いくつかのマスメディアから取材も受けたんですけど、大学の授業は一般にその内容がどうしてもいろいろと外野から文句がつけられがちですし、現在の様々な社会環境の変化にあってないと言われたりもしますよね。

 大学はわりと慣性が強い組織で、組織のさまざまなきまりや慣例を一気に変えるというのは難しいところがあるわけです。他方、その慣性のおかげで大学の「授業」は教員一人の発意と責任でかなり自由にさまざまなことを行うことができる構造になっている。僕も大学で授業をやり始めて20年近くになりますけど、最初はそれにびっくりしました。例えば中学校や高校だと学習指導要領があって、ここの教師はそれに従って授業するわけじゃないですか。当たり前だけど、大学はそうじゃないんですよね。かけ出しの教員だった頃、よその大学の授業で成績評価に関して迷ったことがあったんですが、その時に他の先生に相談しようと思って話したら、「それは先生が考えて決めることです」ときっぱり言われた経験が心に残っています。大学は組織の慣性が強い一方で、個々の局面局面では教員個人が責任を持つ、言い換えれば教員が自由に創意工夫がしやすい構造になっている。「どうせ自分の責任なんだから少しでも面白いことをやってみよう」という考えもありまして、そのような課題を出しています。

 ぼく個人は、ポピュラー音楽のさまざまな現象を対象として、オリジナリティーや作品概念などといったテーマについて美学的に考えることを専門としてやってきました。その関連で、自分が何かを考えて書く、アウトプットするということは、先行するさまざまな知見を自分の中に取り入れ、その組み合わせを表現しているのに、それが「オリジナルの意見」といわれてしまうメカニズムは、よくよく考えてみると不思議なものがあると感じてきた。そのことを授業の中で学生に考えてもらう意図もあります。

 やっていると結構面白いわけです。普通の「○○について論じなさい」というレポートは僕も学生の立場でずっと書いてきましたけど、その頃は1990年代前半ですので、ネットなどなかったわけですよね。なので、なにかについて調べるときは、図書館に足を運んで、本を読んで、その中身を吸収したうえで書くというやり方しかなかった。しかし2000年前後くらいから情報流通のあり方が変わってきて、他人の知見をわざわざ図書館に行かずともすぐに手に入れられるようになり、それを組み合わせて手間を省いたレポートを提出するような学生が増加することで、大学生のコピペレポートが教育問題として浮上するようになってきた。そのような情報環境の変化を前提としたうえで、新しいことを自分で考えたり、あるいはそもそも「自分で考える」とはどういうことなのかを、別のやり方で捉え直させる意図があります。

 実際、大阪市立大学の学生さんは真面目ですので、こっちが「そういう意図でやっている」と伝えると、その意図に真面目に乗っかってくれるところがあるんですよね。いずれにせよこの「完全パクリレポート課題」、読んでいて面白いです。普通のレポートだと採点していると、いちいちコピペじゃないかなって確認するのが辛くなってくるんですね。でも最初から「他人の言葉で書け」と条件を与えておくと、コピペかどうかの確認をする必要がなくなるわけで、その点でも採点は快適ですね。

 学問や研究っていうものは、今まで我々が当たり前だと思ってきたことを法律や社会慣習とうまく折り合いをつけながらひっくり返したり再考するっていうのを不断にやっていく必要があるわけです。これは科学研究の先端だけではなくて、大学の研究活動全般がそうあるべきだと僕は思っている。そういった振る舞いのひとつの実践として自分ではやっているつもりです。

 

 

 ――コロナ禍でオンライン試験が定着して、一日の中で決まった時間内に解きなさいといわれるテストがあるのですが、そういったものはネットなどで色々と参照できる時間があるんですよね。特に法学ではある程度答えが限られているので、調べたうえで答えを提出したいのですが、それを試験の際に自分の答案としてしまって良いのかとても悩みます。いつも剽窃にあたらないか不安になりながら提出するのですが、どこまでが自分の意見でどこからが剽窃にあたるのかを先生方はどう判断しているのですか。

 

 大学や研究、学問っていうのは一括りに扱われることが多いですけど、総合大学にいても基本的に自分の学部のことしかわからないですし、分野によって全然違いますからね。大学の学問は一括りに「科学」と総称されることがある。理系の人はすべての学問が「サイエンス」であるべきだと思っている。僕は自分のやっていることを「人文科学」ではなく「人文学」と呼んでいるのですが、それは僕がやっている研究は「サイエンス」だと思っていないからです。法学もまた「サイエンス」とはちょっと異なるところに力点があるように思える。法学というものはひとつの重要な学問体系ですが、それもまたサイエンスとは異なるかたちで学問を構成している、と考えた方がいい。

 大学の学問の歴史の中で最も古い伝統を持つものは、医学、法学、神学ですよね。あと(その他の諸学を包括するようなものとしての)広義の哲学と文献学。それらが大学の学問の原初的な基盤であって、それらが発展したあとになって初めて「科学=サイエンス」が誕生する。大学外の社会は学問の典型的スタイルを、いつもサイエンスというか、理系の実験室みたいなものでイメージしてしまいがちなんですけど、そうじゃない知のスタイルは実際にはたくさんあって、特に文系の学問は多様なスタイルが混在しています。法学というのは人文学とも少し重点が異なるしサイエンスとも違う、もう一つ別のもの、いわば「社会の運転技術」のようなものに近い、知的な「技術」の集積ですよね。オリジナリティ、つまりそれまでなかったような新しい知見を生み出すというのはサイエンスの重要な要素であるから、剽窃や捏造が倫理的に批判されるわけなんですが、法学の学問や研究、教育は、それとは力点が違う。もちろん剽窃や捏造は法学でもダメなのですが(笑)、そこではオリジナリティの尊重ゆえに剽窃が禁じられるのではなく、「知の正しさ」に抵触するからこそそれは禁じられるのです。

 実際には多様な方法と目的が混在している諸学問の総体が、ひとしなみに近代的なサイエンスの作法で一緒くたに取り扱われる傾向が強くなりすぎて、自分の学んでいる個々の学問分野の方向がその基準に合わない、といった悩みが生じているように感じています。例えば人文学では、外国語の文献の翻訳やその注釈は極めて学問的に重要な仕事なのですが、ここ数年「翻訳はオリジナルな仕事ではない」と見なされ業績として評価されにくくなっている。そのため外国の重要な研究書などが日本語圏に紹介されなくなり、「内向き」の議論が増大してきたようにも感じます。皮肉なことに、政府や文科省はグローバルグローバルと言いつのることで、逆に「外国で考えられていること」が日本社会に紹介されなくなるという帰結を生じさせている。これもさまざまな学問が「サイエンス」の軸でしか見られなくなっていることの弊害の一つだと思います。

 

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取材            文責

片山翔太(Hijicho)       羽戸さくら(Hijicho)


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