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今こそ知ろう! 大阪市立大学の歴史


 大阪市立大学——私たちが通っている大学であるが、その歴史にまで目を向けたことはあるだろうか。市大の歴史は深く、1880年に設立された大阪商業講習所までさかのぼることができる。せっかく市大に通っているのだから、その歴史を少しは知らないともったいない。

 ここでは終戦後に接収された杉本学舎に焦点を当てる。

 

大阪市立大学の占領時代

 市大は、すべての大学のなかで接収による苦難を最も集中的に被った大学といえる。大学の接収は大阪海兵団、そして占領軍によって行われた。

 日本海軍による接収は太平戦争中に始まった。日本海軍の徴募兵員数が1941年以降に急増し、新兵教育の大量化・急速化が必要となる中で、1944年から1945年、大阪商大(市大)の学舎も最終的には半分以上が大阪海兵団の施設に転用され、海軍の接収するところとなった。

 太平洋戦争終結後、今度は本土各地に連合国軍による進駐が行われ、それに伴い、占領軍は旧日本軍施設を多数取り上げた。その中に大阪海兵団が使用していた商大学舎が含まれていたのだ。大阪海兵団が撤収した翌日には占領軍が商大学舎の占拠を開始し、最終的には杉本学舎の全部を接収したのである。この占領軍の接収から10年間、杉本学舎は米軍基地として使用された。名称も「キャンプ・サカイ」となり、学舎の改修、兵舎の増築、生活設備の整備という、軍施設(あるいは病院施設)としての機能を重視した改修工事が行われた。そのため大学は急遽、市内の国民学校(小学校)校舎に立ち退き、移転したのだ。その後、杉本学舎は1950年の朝鮮戦争の勃発により「279th General Hospital(第279連合国軍総合病院)」として傷病兵を収容したり、戦死した米兵の遺体をドライアイス詰にし、本国に送還するための中継地としても活用されたりする中で、徐々に医療施設としての性質も強めるものになっていった。

 1953年7月、朝鮮戦争が休戦しても全面返還には至らなかったため、さまざまな運動が巻き起こった。その結果、1955年7月5日に全面返還が確定し、9月10日返還式が行われた。

米軍の軍事病院時代の杉本町=大学史資料室提供

 このように、杉本学舎は常に大学の施設として利用されてきたわけではなく、海兵団や占領軍の施設としても長い間利用されていたという歴史があるのである。

 その名残が、学内にいくつか残されているのを皆さんはご存じだろうか。今回は、法学研究科の安竹貴彦教授に案内していただいた、1号館のポンプ室、2号館の倉庫、経済学研究棟近くの建造物、本館地区の十字路に残された歴史の痕跡について紹介する。

 

1号館1階のポンプ室に残された女性の落書き

1号館のポンプ室=10月24日、犬田美穂撮影

 1号館1階には階段横にポンプ室がある。一見何の変哲もないように思われるポンプ室には、現在でも大学の歴史の痕跡が残っている。

 中に入り奥に進むと、その壁には看護師か女性兵と思われる女性の絵が描かれていた。このポンプ室が以前にどのように使用されていたかは不明だが、杉本学舎が病院や軍施設としての機能を持っていたことの痕跡であると思われる。その他にも英語でさまざまな落書きが残っており、確かにそこには占領軍がいたという証拠があった。

ポンプ室の壁に残された女性の落書き=9月11日、犬田美穂撮影

 

2号館の2階にある倉庫に残された壁

 2号館の2階には「倉庫」と書かれた扉がある。扉を開け、階段を上がると、ものひとつ置かれていない広い部屋があった。

2号館の倉庫=9月11日、犬田美穂撮影

 

 その壁は白が基調とされた塗装が施されていたが、塗装が剥げているところが散見された。そこから覗く壁面にも占領軍が存在していた証拠見られる。

 まず、壁のある部分には英字が残されていた。英字は「QUEEN OF BATTLE(戦いの女王)」「THE INFANTRY(歩兵)」と書かれているのが見て取れる。この倉庫は何に使用されていたかは不明だが、2号館は朝鮮戦争時代、軍事病院として利用されていたことは分かっている。ここは兵士たちの病室だったのだろうか。

倉庫の壁に残された英字=9月11日、犬田美穂撮影

 

 またある部分は塗装がはげ、青い塗装がのぞいていた。これは安竹教授によると、壁画と推察されるという。しかし壁画は塗りつぶされている部分が多く、全貌を見ることができなかった。

倉庫の壁の壁画=9月11日、犬田美穂撮影

 

学内に残された陸上競技場スタンド

 戦前から占領軍接収時代、現在とは異なり、陸上競技場は今の田中記念館から商学部棟あたりにかけて存在していた。

戦前~米軍接収時代の杉本キャンパス=『大阪市立大学の歴史 1880年から現在へ―大学は都市とともに、都市は大学とともに―』より転載

 

 そのスタンドの名残が、経済学研究棟近くに現在も残されている。

陸上競技場のスタンドの名残=10月24日、犬田美穂撮影

 

 そのスタンドは占領軍接収時代にも使用されていたらしい。なぜならそこに「RESERVED FOR THE COMMANDING OFFICER(司令官のために確保済)」と白い文字で書かれているのを今も確認することができるからだ。

「RESERVED FOR THE COMMANDING OFFICER」の文字=10月24日、犬田美穂撮影

 

本館地区十字路の通路の勾配の謎

 また、1号館の前には十字の通路がある。そこの十字の交差部分が少し盛り上がっているのをご存じだろうか。

本館地区の十字の通路=10月26日、犬田美穂撮影

 

 そこには占領軍接収時代に旗の掲揚台があった。そのコンクリートの基礎が現在でも残っているため今も少しばかり盛り上がっているのだ。

米軍接収時代の杉本校舎(本館時計台より北方に望む)=大学史資料室提供

 

 学舎が返還されてから60年余りが経過しても、今なお学舎に残り続けている市大がたどってきたたくさんの歴史の痕跡。市大の歴史と言われても興味がない、そんな方も現在でもその歴史が学舎に刻み込まれていることを知って、身近に感じ、興味を持っていただけたのではないだろうか。今回の調査で、学舎は市大の歴史とともに歩んできた市大の生き字引であると身をもって感じた。このような市大に刻まれた貴重な歴史の遺産をこれからも大切に守っていってほしい。

 

参考資料

松本裕行、『大阪商科大学・大阪市立大学における暖房汽罐室の変遷―戦前期・接収期・返還後を通じて―』、「大阪市立大学史紀要第7号」(2014年・大阪市立大学大学史資料室)

田中ひとみ、『昭和19年 大阪海軍経理部―大阪市 商大土地建物賃貸借契約書について』、「大学資料室ニュース第12号」(2008年・大阪市立大学大学史資料室)

田中ひとみ、『大阪市立大学学舎接収時代史料群』、「大阪市立大学史紀要第7号」(2014年・大阪市立大学大学史資料室)

大阪市立大学大学史資料室、『大阪市立大学の歴史 1880年から現在へ―大学は都市とともに、都市は大学とともに―』(2017年・大阪市立大学)

大阪市立大学百年史編集委員会編『大阪市立大学百年史全学編上巻』(1987年・大阪市立大学)

大阪市立大学編『大阪市立大学の百年 1880-1980』(1980年・大阪市立大学)

文責

犬田美穂(Hijicho)


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