HijichoのLINE公式アカウント
友だち追加数

大阪歴史探訪第四回 阿倍野地区の昔の姿ー天王寺村の特産品ー


 古代には難波宮がおかれ、江戸の世には天下の台所として栄え、明治以降には近代都市として発展してきた歴史あるモダン都市大阪。ここではそんな大阪の歴史に焦点を当て、知られざる大阪の魅力を発掘すべく、大阪の歴史にまつわるいろいろなものを紹介していこう。

 今回は数年前にはあべのキューズタウン、今年にはあべのハルカスが開業するなど急速に再開発が進んでおり注目を集めている阿倍野地区のかつての姿と幻となった特産品について紹介する。

 阿倍野地区は、今では多くの商業施設やビルが立ち並んでいるが、明治時代にまでさかのぼってみると、実はこの地域には農村が広がっていたのである。
 当時は大阪の都市部といえば江戸時代の大坂三郷の範囲 (おおよそ現在の北区・西区・中央区にあたる) がメインであり、 周辺には多数の村が存在した。阿倍野地区はそういった村の一つである天王寺村の一角に位置していた。
 天王寺村は明治に入って間もない頃は農村で、見渡す限り農地が広がっていたようであるが、明治二十年代頃から交通機関が発達し始め、同時期に天王寺駅も創られた。以降はそれに伴い住宅地化が行われていき、大正期に完全に大阪市に編入されるころにはかなり市街地化がすすんでおり、人口も増加していたという。天王寺村は、主に交通網の発達により農村から都市へと変化し、現在に至っているのである。
 
 しかしそういった都市化に伴い、幻となった天王寺村の特産品が存在する。天王寺蕪や天王寺大根といった野菜である。これらは江戸時代から明治時代末期にかけて天王寺村独特の名産品として栽培され、漬け物などにして全国に出荷されていた。いずれも味や形は評判がよく、竹垣に蕪を並べ、干し蕪を作る姿は天王寺村の風物詩であったといわれているが、明治の末期頃にズイムシなどの虫害にたびたび遭って衰退していき、その姿を消した。そして都市化に伴って農地がほとんどなくなったことによりこれらの特産品は幻となったのである。

 また、天王寺蕪にはこのような言い伝えもある。かつて信州の野沢村の寺の住職が天王寺蕪を持ち帰って栽培したところ、気候の影響でかぶらのかわりに葉が大きく成長したので、その葉を漬け物にしたのが野沢菜の始まりと言われている。近年は否定的な説も存在するが、この言い伝えは天王寺蕪がいかに名の知れた特産品であったかを示しているということができるだろう。
 
 実は天王寺蕪や天王寺大根は復活が目指されており、天王寺蕪に関しては大阪府Eマーク食品に認定され、商品化もされているので入手可能である。こういった幻の特産品から、かつての大阪市周辺の農村の姿を想像するのも面白いかもしれない。
注) 大阪府Eマーク食品:「素材・製法」ともに地元“大阪”にこだわってつくられた商品として、大阪府の認証を受けたもの。

参考文献

猿田博『阿倍野今昔物語』(1995年 阿倍野今昔物語編集委員会)
川端直正編『阿倍野区史』(1956年 阿倍野区市域編入三十周年記念事業委員会)

文責

 古迫肇 (Hijicho)


関連記事

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

Hijicho on Twitter

ページ上部へ戻る