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五代友厚をたずねて 第1回


 大阪市立大学の創設者、五代友厚。皆さんはどんな人物か知っているだろうか。実は今年、大河ドラマに登場したことで五代友厚が再び注目されている。せっかく市大に通っているのだから、知らないなんてもったいない! 連載「五代友厚をたずねて」では、五代友厚の功績を現役市大生の目線から辿っていく。

 第1回となる今回は、大阪企業家ミュージアムを見学し、五代友厚とはどのような人物なのか調査した。

 

大阪企業家ミュージアムの外観=6月9日、赤松みなみ撮影

長崎で学んだ青年時代

 五代友厚は、天保6年(1836)2月12日に薩摩藩の儒者五代直左衛門秀尭の次男として生まれた。幼名は徳助、またの名を才助という。「才助」は、藩主が五代の才能を称えて名付けたと伝えられている。

 安政元年(1854)、五代は19歳で薩摩藩に仕えることとなり、郡方書役に任じられた。安政4年には、幕府が設立した長崎海軍伝習所に遊学する。そこでは、勝海舟や榎本武揚など、のちの明治期に活躍する人々も学んでいた。外国の文明や知識に触れた五代は、開国に目を向けるようになっていった。

 

新政府役人から実業家の道へ

 慶応3年(1867)に新政府が設立されると、五代は外交的手腕を買われて、参与職外国事務掛として登用される。慶応4年には、外国貿易関係の事務を管轄する参与職外国事務局判事に任命され、大阪在勤となる。これを機に、五代は大阪と関わるようになっていった。

 明治2年(1869)、五代は会計官権判事として横浜への転勤を命じられるが、2ヵ月余でその地位を去る。官を辞した五代は大阪に戻り、実業家の道へ進むことを決める。この頃、五代は大久保利通に対して「政府には人材がそろっているが、民間にはいない。自分は大阪に行って一般の商工業の発展に努力する。」と述べたという。

 

実業家としての五代

 実業家となった五代は、まず貨幣から地金を取り出して造幣局に納める「金銀分析所」を設立した。また、鉱山経営の本拠地「弘成館」を、製藍会社「朝陽館」を設立する。近代化を進めようと、自ら多様な事業を展開したのである。

 さらに、財界指導者として新たな制度や団体も作りあげた。株式会社組織の「堂島米会所」や「大阪株式取引所」などである。その一方で、維新期に乱れた商慣習を整えるために、「大阪商法会議所」も創設した。大阪商法会議所は、大阪商工会議所として現在も大阪の経済を支えている。実業教育の面では、明治13年に大阪商業講習所を創設。私たちが通う大阪市立大学の源流である。

 

大阪の恩人

 明治18年(1885)、五代友厚は49歳の若さでこの世を去った。蓄財はなく、100万円の借財を残していたという。事業で得た利益は、財界活動を通じて社会に還元していたのである。五代の興した事業のうち、現在まで残っているものは数少ない。しかし、幕末から明治の混乱期に人々を導き、新たな仕組みを提示した五代は、間違いなく「大阪の恩人」である。現在私たちが暮らす大阪こそが、五代友厚が残した最大の功績と言えるだろう。

 

主展示エリアの様子、一番右の人物が五代友厚=6月9日、赤松みなみ撮影

 

大阪企業家ミュージアムについて

 大阪企業家ミュージアムは、地下鉄堺筋線・堺筋本町駅より徒歩5分の場所にある。受付前には五代友厚を特集したコーナーがあった。

 主展示エリアでは、大阪で活躍した105人の企業家を、明治以降3つの時代ブロックに分けて紹介している。五代が築いた大阪の経済が、その後どのように現代まで続いてきたかを知ることができる。

 学生証の提示で、大学生は100円で見学することができる。興味のある方はぜひ足を運んでみてほしい。

 

参考文献

 宮本又郎(大阪企業家ミュージアム館長)『商都大阪をつくった男 五代友厚』(2015・NHK出版)

 

参考リンク

 大阪企業家ミュージアムHP(大阪企業家ミュージアム (kigyoka.jp)

 

文責

赤松みなみ(Hijicho)


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