HijichoのLINE公式アカウント
友だち追加数

地域交流の第一歩 あさかで祭り 10月9日


お祭りが始まった経緯

現在、大阪市営地下鉄御堂筋線の終点はなかもず駅である。しかし、かつてはあびこ駅が終点であり、車庫がこの地域に存在していた。

その歴史を覗いてみよう。1950年代に地下鉄があびこまで延伸することが決定され、当然車庫を移動することとなったが、候補地となった各地ではどこも反対があり大阪市も困っていた。そこで、浅香に白羽の矢が立ち、その結果、地域の反対を押し切り浅香の北側に位置する、約33,000坪という非常に大きな地下鉄車庫が建設された。今考えるとこれも差別結果であった。なぜなら、南に大和川、西に市大、東に吾彦大橋、そして北に地下鉄車庫という、浅香地域を周りの地域との関わりを遮断する環境とされる結果となったからである。

1976年3月に「部落解放浅香地区総合計画実行委員会」が結成された。同年6月には対市総合交渉で地下鉄車庫の全面撤去が確約された。大阪市も浅香の劣悪な環境を認めたということだ。これは浅香の住民や周辺の住民の闘いはもとより、部落解放運動の理解と浅香全体のまちづくりに関わっていこうという、車庫の労働者の思いも重なり実現できたことである。

一方、地下鉄をさらになかもず駅まで伸ばすという議論が持ち上がり、決定される。1980年代のことだ。これらが相まって、いよいよ地下鉄車庫の全面撤去が実現していく。そして1987年4月11日、最後の電車が車庫を出発し、地下鉄あびこ車庫は27年間の幕を下ろした。

その車庫のあった場所は現在、さまざまな施設に生まれ変わっている。住吉スポーツセンターや我孫子南中学校、そして浅香中央公園などである。「あさかで祭り」はこの地下鉄車庫の問題が解決されたことをきっかけにして始まった。会場となる浅香中央公園には、今も当時の車両とレールが保存されている。

参考

浅香の歴史/にんげんのまちへ至るまで
(http://www.ochra.or.jp/branch/yosami/yosami_history02.html)

まつりを通して知る地域のすがた

また、このお祭りが浅香という地域を知るきっかけにもなればと思う。先の経緯でも挙げたような、地下鉄車庫の車庫がこの地域にあったことを知っていた人は少なかったはず。まして、それが差別を生み出す要因になっていたことは、おそらく知ろうとしないと誰もわからない。少し意識して身の周りを見てみることが地域を知る第一歩。このようなものの見方は、生活する中で活かすことができるだろうし、その視点は人生において不可欠なことだ。

文責

島田隼人 (Hijicho)

お問い合せ

「あさかで祭り」に関するお問い合せは、Hijichoまでお願いします。
(http://hijicho.com/?page_id=330)


固定ページ: 1 2

関連記事

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

Hijicho on Twitter

ページ上部へ戻る