住吉のいわれとまちなみ

「昔、息長足比売(おきながたらしひめ)(神功皇后)の世に住吉の大神が出現して住むべき国を探し求めて天下を巡りこの地(住吉)に至ったとき、これぞ、まさしく神の地と定めた」とあり、住むによきところであったことを「摂津国風土記」で物語っており、これが住吉と呼ばれる由縁といわれています。

住吉は上町台地の南の端で、その西側は北方と比べて急な崖は極めて少なく、「住吉の津」といってなだらかな海辺に沿って船の接岸に適した入江でした。また、砂浜が美しく魚の産卵にも適し、渡り鳥も多く、夕日が美しく「ちぬの海」ともいわれ、白砂青松 (はくしゃせいしょう) と万葉集にも歌われるほど、自然美あふれる素晴らしいところでもありました。

古代から海上交通、外交の港として海の神・住吉大社が栄えました。中世では、住吉は「蟻の熊野詣」といわれる熊野参詣道 (熊野街道) の道筋にあたっていたため、大勢の人たちがこの地を訪れました。

また、交通の要衝であったため、我孫子は鋳物師 (いもじ)・遠里小野は荏胡麻 (エゴマ) 油などで地域そのものが栄えた時代もありましたが、南北朝時代や戦国の戦乱で荒らされ、戦火により寂れた時代もありました。江戸時代、紀州街道によって堺との流通や商業活動が活発になり、再び住吉は栄えることになります。

近代になっては、先駆的な産業が生まれます。それは日東蓄音機 (レコード)・摂津酒造・だんつう業 (もうせん・じゅうたん等) など。さらに交通面においても、国内初の私鉄が生まれ、蒸気機関車が走り、地域一帯はさらに発展を遂げました。住吉の町並みが当時の産業・商業活動の活発さを、神社や寺が住吉区の歴史を物語っています。住吉の歴史の奥深さ、その魅力とロマンを今でも感じさせてくれます。

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