大阪を代表する作家 藤澤桓夫

藤澤桓夫 (ふじさわ・たけお、1904-1989) は、大阪を描き続けた大衆作家であり、大大阪と呼ばれた時代に文化で支えた人物。終生住吉に住み続け、代表作『新雪』は映画化され、『天使の羽根』はNHKでドラマ化されるなど、数多くの小説を残しました。秋田実・長沖一・武田鱗太郎・織田作之助などの多くの作家と交流がありました。また、彼の『大阪自叙伝』などの随筆は、大阪を知る上での貴重な資料です。

大阪高等学校に入学した大正12年、同人雑誌「龍舫 (りゅうほう)」を創刊。これが翌13年に「傾斜市街」となり、さらに翌年14年の「辻馬車」創刊が続き、大阪を代表する雑誌になりました。雑誌の執筆には藤澤桓夫らを中心に、長沖一・武田鱗太郎が加わりました。藤澤桓夫が発表した短編小説『首』は、横光利一や川端康成が絶賛し、新感覚派で鳴らした東京の「文藝時代」に対抗できる雑誌として認められました。その後、同人たちは、東京帝国大学生による同人誌「大学左派」の創刊に流れ込んでいきました。

大正15年4月、東京帝国大学英文科に進学し、今宮中学校 (現在の今宮高等学校) で同窓だった武田鱗太郎と行動を共にしました。その間プロレタリア文学の影響を強く受け、武田や高見順ら東大内の同人誌の急進派が中心に創刊した「同人左派」に加わりました。その後、プロレタリア文学運動機関誌として著名な「戦旗」、雑誌「文学」に発表した『ローザーになれなかった女』、「新潮」の『傷だらけの歌』により新進作家の地位を確立しました。『傷だらけの歌』は第三インターナショナルの歌がテーマにされています。

「新潮」に『傷だらけの歌』が掲載された翌月の昭和5年1月、不規則な生活と過労から喀血 (かっけつ) し、1ヶ月近く入院することになりました。予後のため、湯ヶ島の湯本館に滞在していた川端康成を頼って湯本館に赴きます。長沖一が2月の入営間際まで付き添い、原稿の口述筆記までしました。梶井基次郎は近くの旅館湯川屋に滞在し、毎日のように湯本館に川端や藤澤を訪ねてきました。この頃、藤澤は尾崎士郎と宇野千代夫人が宿に置いていった将棋講座の本を読み、将棋に興味を持ち始めます。同年春に、菊池寛の紹介で富士見高原サナトリウムに入所しました。以降3年間にわたる療養生活を送り、同時期に入院していた横溝正史と友人になりました。この入院中に、「中央公論」に『燃える石』、「新潮」に『晴れ―或る生活風景―』を寄稿し、菊池寛の仲介で夕刊大阪新聞に、大阪を舞台にした最初の新聞小説『街の灯』を連載しました。後に開花する、「大阪もの」と呼ばれる藤澤桓夫の大衆小説の萌芽がうかがわれ、藤澤桓夫の大阪再発見がありました。

昭和8年29歳で帰阪し、療養の予後のために、母カツの弟石浜純太郎の家の離れ屋に住まい、作家生活を続けました。この家は住吉区墨江にあり、この年から、一度も東京に下らず、新幹線にも乗らなかったというほど、大阪を離れずに終生定住しました。その年の「文藝春秋」5月号に『新大阪風俗』が掲載されたのを皮切りに、翌年には「中央公論」に『大阪の話』を寄稿、その間には『街の灯』が映画化されるなど、大阪を舞台にして、明るく知的な生活のありさまを描き始めました。大阪再発見が明るさを伴って開花したといえます。

昭和11年、2.26事件が勃発し、坂道を転がるように戦争に突入していく時代にあって、藤澤桓夫は32歳。秋田実をモデルにした恋愛小説『花粉』を朝日新聞に連載し、好評を得ました。翌年からは『大阪』・『道頓堀の女―大阪物語集』・『花ある氷河』など多くの「大阪もの」大衆小説を発表します。昭和13年には、三宅邦子・上原謙主演で『花ある氷河』が映画化されました。紀元2600年の祝賀に沸く昭和15年、織田作之助との交流が始まります。昭和15年当時、秋田実は吉本興業の文芸部長を兼務しながら漫画雑誌「大阪パック」の編集長を務めていました。そこで、藤澤桓夫の『淡雪日記』が田村孝之介装丁画で刊行され、以降このコンビの作品が次々と生み出されたのです。昭和16年11月24日から翌17年4月28日にかけて、朝日新聞に田村孝之介挿絵で『新雪』を連載し、大評判となりました。叔父の石浜純太郎をモデルにして、モンゴル語学者の娘・弟子・教師・女医の四人の恋愛模様を六甲山を背景に描き、これが翌年、五所平之助監督・月丘夢路主演で映画化され、灰田勝彦が歌う主題歌「♪紫けむる新雪の峰ふり仰ぐ、この心~」が大ヒットしました。昭和19年、飛行兵と戦闘機開発技術者を主人公にした『翼』を朝日新聞に連載しました。

終戦を迎え、これを機に本領の大阪を舞台にした都会的な大衆小説が開花したのです。その作品は、常に中・上流家庭の主人公のちょっとした事件に恋愛があからむスタイルで、それは藤澤桓夫にとっての「大阪もの」であるかのようでした。昭和22年『生活の樹』、24年『彼女は答える』、26年『感傷旅行』・『天使も夢を見る』、27年『白蘭紅欄』、28年『妖精は花の匂いがする』・『東京マダムと大阪夫人』と、毎年のように藤澤桓夫原作映画が製作され、時代は藤澤桓夫の大阪都会派大衆小説を求めました。織田作之助が若死にした昭和22年には、大阪太陽社の文学賞「織田作之助文学賞」の創設に尽力しました。昭和39年1月10日には、織田作之助17回忌を記念して、藤澤桓夫・長沖一・前田藤四朗が発起人となって、法善寺横丁正弁丹吾前に句碑を建てました。

藤澤桓夫は、なぜか賞には無縁であり、文学碑も未だ建てられていません。晩年、昭和54年9月から平成元年5月まで、読売新聞毎週月曜日の夕刊に随筆『人生座談』を長期連載し、その6月12日に85歳で亡くなりました。

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