三ツ矢サイダー物語

アサヒ飲料の「三ツ矢サイダー」のルーツは、兵庫県川西市の多田沼です。この鉱泉の水は、薬用として大変効能があるといわれ、明治17年にはビンに詰められ「三ツ矢平野水」として売り出されて全国的に評判を高めました。その後、明治40年に炭酸飲料水として名前も変えて発売された「三ツ矢サイダー」は、現在も全国各地で製造されています。また、川西市平野にある「三ツ矢記念館」では、「三ツ矢サイダー」の歴史を物語る数々の展示品が公開されています。

実はこの多田沼と住吉には深い関係があるのです。

平安時代の中頃、源満仲 (みなもとのみつなか) が摂津の守の命令で城を造ろうと住吉大社に参詣した際、「この白羽の矢を天に向かって射よ。その落ちる所を汝の城と定むべし」という神託を受けて、1本の白羽の矢を渡されました。康保5年 (西暦969年) 1月13日の朝。満仲は大勢の部下に矢の落ちる場所を見届けるように命じて、住吉大社の社頭から弓を引きしぼって矢を放ちました。部下たちが方々にその行方を追っていると、一人が今の兵庫県川西市平野の山の中で、杖をつきながら歩いている老人に遭遇しました。部下がその老人に矢の行方を尋ねると、老人は目の前の多田沼を指して「この沼に住む9つの頭を持つ龍が、近辺を荒らして住民を苦しめておる。だが先ほど1本の矢が飛んできてその龍の頭に当たった。この沼の中を探してみよ」と告げ、そのとたんに、老人は煙のように消えてしまいました。この不思議な老人こそ、住吉大神の化身だったと言い伝えられています。

この多田沼は、丹波篠山の大杉の根元から落ちる水を源にした渓谷が、谷川の水を集めて注ぎ込んだ沼で、沼の水は山の一角から流れて数十の滝を経て、大阪湾まで達していました。部下からの報告を聞き、この地に城を造ろうと決意した満仲は、たくさんの人力と時間を費やして多田沼に滝の水を放ったところ、多田沼の周辺は肥沃な田畑となり多田新田が生まれました。満仲はこの多田新田に城を築き、矢を発見した部下には「三ツ矢」の姓と三本の矢羽(やばね)の紋を与えて、重臣として取り立てたといいます。

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