大和川物語

大和川は、水源を奈良県笠置山地に発し、大和盆地の水を集めながら生駒山地を横切って、大阪府柏原市で石川と合流します。現在の流路 (新大和川) は、ここからさらに西に流れ、上町台地の南部を横断して、大阪市と堺市の境界を形成しながら、大阪湾に達しています。

しかし、昔の流路 (旧大和川) は違っていました。石川と合流すると西ではなく西北に流れ、久宝寺川と玉串川に分流していました。玉串川はさらに菱江川、吉田川に分かれ、吉田川は北流して深野・新開の二大池に通じ、西に転じて久宝寺川とめぐり合い、大阪城の東で平野川の水を合わせ、淀川に流れ込んでいました。以上のように旧大和川の水系は、複雑であったうえ、水流は穏やかで流路も屈曲していたのです。

低平な河内平野を流れていたため水はけが悪く、流域の人々は降雨のたびに水害に苦しんでいました。史上に記された洪水だけでも、天平宝字6年 (西暦762年) の長瀬川堤防決壊をはじめとして、奈良時代後半の僅か40年間にも10余回の水害に見舞われました。平安時代初めの延歴7年 (西暦788年) 3月には、和気清麿が人夫23万人を使役して、河内川を導いて海に通じようとして、本格的な工事に着手しました。

住吉区の南側を西へと向かう新大和川の流れは、今から300年ほど前の江戸時代末期に付け替えられたものです。かつての流域に位置する村の庄屋である中甚兵衛が、長年にわたって幕府や奉行所に付け替え工事を陳情し、宝永元年 (西暦1704年) に工事は完成しました。時は江戸五代将軍綱吉の時代。幕府の命令によって、大和川のつけかえ工事を始めた姫路藩は、河口から上町台地の部分の工事に着手しました。ところが浅香で苦労している最中に藩主が亡くなります。人夫たちは狐のたたりだと恐れ、狐を供養したところ、狐が人夫に化けて工事を助けたという伝説があります。洪水に脅かされてきた人の暮らしと農業を守るために、50年近く大和川の付け替えを訴え続けた中甚平衛。300数年前、平和な時代であったからこそ、幕府の命令が下され、藩が競い合って川普請工事を8ヵ月で完成させたのです。

ちなみに、旧大和川の流域だった地域で開墾された田畑は、川がもたらした肥妖によって豊作になり、随分幕府は儲けたといいます。新田が開かれ、農具の改良と相まって生産は飛躍的に伸びていきました。

大和川が住吉区の南側を流れるように付け替えられてから300年あまり。堺のかるたには、「利よりも害・港をつぶした大和川」と描かれています。大和川の付け替えは、大阪の繁栄の土台をつくる一方で、南蛮貿易で栄えた堺の港を土砂で埋めていきました。

新淀川も大和川も人工の川ですが、淀川は官 (国) の手によって、大和川は民 (庶民) の力で造られたのです。きれいな川があるだけで心が和む。水辺で遊んだ思い出はいくつになっても心の宝物です。与謝野晶子は、荷車で大和川へ蚊帳の洗濯に行った堺での思い出を懐かしんでいます。今はきれいとはいえない川でも、柏原の大和川人工渓流で水遊びを経験し、子どもたちは大はしゃぎ。その後、大和川の環境は昭和30年代後半から悪化の一途をたどりましたが、近年は水質も大幅に改善され、現在でも大和川の再生を目指す取り組みが行われています。

コメントが1件あります

  1. 山田幸和 より:

    大和側の付け替えは1703年ですから、江戸時代末期ではなく、中期、ど真ん中です。
    また「川がもたらした肥妖によって豊作になり、随分幕府は儲けた」とありますが、旧川跡を入札で払い下げ=新田開発をしたところ、ほぼ経費と同じ値で売れた。「この工事にかかった費用は約7万7千両、工事従事者延べ約286万人と言われる。費用のうち幕府は約3万7千両を負担したが、旧川筋の新田開発の入札代金が約3万7千両で、幕府にとっては収支トントンの事業であった。」大阪再発見!史跡、大和川付替工事跡(1)「大和川付替え物語(柏原市役所発行)」よりとあります。
    ちなみに、八尾市域の大和川筋の多くは淀藩の領地でした。一番広い東大阪、大東の辺りの旧深野池跡はのち鴻池家が新田開発しています。

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