遣隋使・遣唐使の歴史とロマン

羅針盤などの航海術が未発達の時代、多くの遣隋使・遣唐使が東シナ海の荒波を乗り越えて大陸に渡りました。住吉大社のすぐ南側に人出型に入り込んだ入り江があり、船が出入りするに適した海岸がありました。それが住吉津です。

当時大陸への渡航は命がけでした。いつ難破して海の藻屑になるかもわかりません。奈良時代以降に四船で出かけた頃は、船団全体で500〜600人、一つの船に100〜120人が乗船していました。その中の約半数が水夫や漕ぎ手。日本の帰って来れたのは6〜7割で、多くの人が道中で亡くなっています。

遣唐使のメンバーは、大使・副使をはじめ、船長・航海士・水夫・神主・医師・陰陽師 (易・天文学)・画家・技術職人 (ガラス・鍛金・鋳金・木竹士等)・通訳・留学生・学問僧など。はるか西方、海の向こうの文化への憧れと、それを取り入れて日本で新しい文化を築こうとする意欲に燃え立っていた時代のことです。若い留学生が夢のような長安の都に学び、苦難と努力の末彼らがもたらした大陸の先進文化が、古代日本の国家整備と文化の形成につながり、今日の私たちの生活にも深く根付いています。

日本の弥生時代とその後約1,000年間に、海を渡って日本に来た大陸移民は1,000,000人以上にのぼります。8世紀中頃の時点で日本の人口が約5,600,000人でしたが、大陸移民とその子孫はそのうちの5分の1を占めていました。中国人を主体とする大陸移民が日本にもたらした先進的な文化技術は、日本社会発展の重要な原動力になりました。

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