住吉の一休さん

「一休さん」の名で親しまれている一休和尚 (いっきゅう・おしょう、1394〜1481) が晩年を過ごした仮住まい「牀菜庵 (しょうさいあん) は、現在の上住吉西公園の位置にあったといわれています。一休は後小松天皇の落とし子と伝えられており、天衣無縫・反骨な性格で京都・奈良・堺など移り住んだといわれています。

牀菜庵の跡は、明治初年までそれらしき門跡や竹やぶが残っていたといいます。上住吉西公園の南東には、「一休禅師牀菜庵跡」の石碑と案内板が建っています。ここには、一休和尚が、室町時代文明2年 (西暦1470年・77歳) ~文明10年 (西暦1478年・85歳) の8年間にわたって仮住まいしたといわれています。とんちで有名な一休さんが、こんなにも近くに住んでいたのですね。

一休さんが奈良から堺に移った翌年文明2年 (西暦1470年・77歳)、堺の豪商で大徳寺伽藍再興に尽力した尾和宗臨 (おわ・そうりん) が、現在の上住吉西公園の位置に一庵を設け、一休さんを招きました。一休さんはここを「雲門庵」と呼んで弟子と一緒に移り住みました。数年後には庵を築き、これを「牀菜庵」と名付けたのです。

一休さんは、文明10年 (西暦1478年・85歳)に瘧 (おこりやまい) が再発して自らの死期を悟り、住吉を離れて京都・田辺の「酬恩庵 (しゅうおんあん・一休寺)」へと去りました。一休さんがここに住み始めたのは、康正2年 (西暦1456年・63歳) の頃で、文明13年 (西暦1481年・87歳) に亡くなるまでの25年間、一時は住吉との間を行ったり来たりしながら住んでいました。

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