住吉『玉手箱』浦島太郎伝説
『摂津名所図会』は、「畠中に塚あり、土地の人はこれを玉手箱といっている。塚に上がるとたたりをうけるという。玉手島の誤りだろうか。いずれにしても住吉大社の末社の旧地と思われる」としています。玉手は玉出に通じることから、玉類の出土があったものと考えられます。伝承では、浦島太郎の玉手箱を埋めた塚ともいいます。この浦島伝説は丹波地方の伝説として知られていますが、住吉にも伝承があり、大海 (おおわたつみ) 神社を玉出島、手塚山古墳を玉出丘といいます。ちなみに、遠里小野二丁目・六丁目の大和川右岸 (北側) 沿いの地域には、字「玉手箱」の地名が残っています。
浦島太郎のモデルとなったとされる人物として、『万葉集』に「墨吉」(すみのえ) の人の記述があります。これは今も住吉大社に祭られている「住吉明神」のことで、別名「塩土老翁 (しおつつのおじ)」といいます。彼は大変長生きしたとされており、そのモデルとされる武内宿禰 (たけのうちのすくね) は、伝説上では実に360歳という長寿を誇る怪物的な存在です。『古事記』には、景行天皇に始まり成務・仲哀・応神・仁徳まで、5代の天皇に244年間にわたって仕えたと記されています。彼はその間に様々な功績を残したとされていますが、特に有名なのは神功皇后の新羅遠征を補佐したこと。他には、景行天皇の代の蝦夷地視察、応神天皇誕生後の籠坂、忍熊王子の叛乱討伐などといった功績が記紀に記されています。こうした武内宿禰の出自に関しては、長く天皇を補佐した有力な存在ということから、蘇我馬子一族をモデルにした存在であるという説もあります。いずれにせよ200年以上も生きる人間などというのはいないわけですから、伝説的に作られた人物像でしょう。
林羅山著『本朝神社考』によれば、「玉垂」の名の由来は、神功皇后が新羅に遠征して海上で戦ったとき、高良明神が潮の干満を操る呪力を持った玉を海中に投げ入れて戦いに勝ったことにちなむものだといいます。神功皇后の事業をサポートした実績から、この高良明神を武内宿禰とするのが通説になっています。高良明神の神徳は武運長久であることから、試験や勝負事などには、祈願するといい結果が期待できるともいわれています。浦島太郎・塩土老翁・武内宿禰、この三者は長生きで共通しています。塩土老翁の「老翁」の字は、老人になった浦島太郎にそっくりであり、塩土老翁は大和朝廷の天孫降臨を導びき、神武天皇の東征を促した謎の神であるとされています。また、武内宿禰は古代豪族・蘇我氏の祖とされ、あわせて応神天皇の東征も導いたとされており、三者は同じイメージで繋がっていきます。神武天皇の東征と応神天皇の東征はルートも似ており、神武天皇と応神天皇も同一人物ではないかとの見方も見て取れます。
蘇我氏と浦島にも「海」という接点があります。7世紀に全盛期を迎えた蘇我氏は、縄文時代から生産されてきたヒスイ (硬玉) を独占的に生産していました。ヒスイは海底の海神からもたらされる神宝と考えられ、蘇我氏が海の神宝ヒスイにこだわった所に浦島太郎とのかすかな接点が見出せます。
ちなみに、神功皇后と武内宿禰は明治時代に一円札になっています。神功皇后は神の託宣によって皇后自らが軍勢を率い、海を渡って新羅を攻略したと古事記・日本書紀に記されています。この時、皇后の船の前や横に、たくさんの魚が寄り集まって誘導したといわれています。新羅王は、皇后の勢いに押されてたちまち降服しました。他の高句麗 (こうくり)・百済 (くだら) もこれにならったとされています。女性の身でありながら、天皇すなわち男性の代わりとなって軍団を指揮し、朝鮮半島に渡って新羅その他を征服した勇猛な軍神ということで、お札になったようです。
一方、武内宿禰は古事記や日本書記に書かれた伝承上の歴史的人物です。景行天皇・政務天皇・仲哀天皇・応神天皇・仁徳天皇の五代天皇を補佐した「日本初の宰相」として理想的な大臣像であるといわれています。天皇に対するひたむきな忠誠心の持ち主。心優しく、自分自身も傷つくような柔軟な精神の持ち主であり、文学の神様、学問の神様といわれています。余計なことはいわないが、重大な時に限りなく勇気を示し、同時にまた相手を打ち負かす武力の持ち主でした。力強く頼もしい人物ということで、戦前には紙幣 (5円・1円) の肖像にも採用されました。
コメントがありません