考古学からみた住吉津と難波津

遣隋使・遣唐使などの外交・交易活動の舞台となった大阪湾。その交通を保安・警備していたのが住吉津であり、外交・交易の玄関口となっていたのが難波津でした。

住吉津は、南住吉遺跡・山之内遺跡・遠里小野遺跡などから細江川・狭間川の河口にかけて位置していました。「磯歯津路(しはつみち)」関連史料によると、雄略天皇14年 (西暦470年) 中国の呉 (くれ) 国使が住吉津を訪問した際、飛鳥の都への路が整備されていなかったので、新たに道が造られ、磯歯津路を通って飛鳥へ向かったという史料がある。

難波津は、大阪城下町跡下層・大阪城跡下層などから大川に近い大阪湾岸や船場地区のあたりに位置していたと言われています。歴史的には弥生時代から存在していた住吉津が古く、港湾整備の時期は古墳時代中期から始まった難波津の方が早いとされています。難波津は仁徳天皇が港を建設し、外国人を迎い入れていました。

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