開けゆく住吉

大阪の上町台地は、北は大阪城から南は住吉にいたる台地でした。我孫子台地は上町台地に並行し、堺の丘陵から北へ延びて、苅田・杉本・山之内の周辺まで続いています。標高10mから15mの台地とその周囲の平地には、約3,000年前から人が住んでいたと言われています。

遠里小野遺跡や堺の三国丘遺跡からは、古代人が狩猟や漁業に従事していたことが分かっています。また、日本書記によると2,000年以上昔、農業の「ため池」として依羅池 (よさみ・いけ) が開発されています。

鎌倉時代から室町時代にかけては、住吉はしばしば戦場となり荒れ果ててしまいました。また、江戸時代には政治の中心が京都から江戸に移り、住吉の地はその地位を顧みられなくなりました。

明治時代に入ると、庄屋・年寄りといった地域の指導者は廃止され、区長・戸長が設置されました。当時住吉郡は大阪府の第2区に属しており、明治29年には住吉郡は東成郡に編入され、天王寺村・北百済村・南百済村・田辺町・平野郷町・喜連村・依羅村・長居村・住吉村・墨江村・安立町・敷津村の12町村の区域まで拡大しました。大正14年、大阪市の第2次市域拡張に伴い東成郡・西成郡が廃止され、大阪市に編入されました。当時大阪市の人口は2,114,000人で、国内第1位、世界第6位の大都市となったのです。

第2次世界大戦後、苅田周辺の地域には住宅がほとんどなく農地が広がっており、大きな依羅池をはじめ、北野池・針ヶ池・今池・仁池・オクダ池・湧水池・垣外池・八反池など、農業灌漑 (かんがい) 用の池が多く存在していました。初夏には、蛙 (ウシガエル) が鳴き、鯉や鮒、亀もいたといいます。周辺には水田や畑が広がり、春になるとレンゲの花が咲き乱れていました。

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