江戸時代の住吉の浜は潮干狩りの名勝
近世の大阪湾岸には潮干狩りの名所がありました。『摂津名所図会』(寛政10年・西暦1798年刊) には「出見の浜」と高燈籠の絵が描かれています。高燈籠に登り、扇をかざして四方山 (よもやま) を眺めている人や、下の茶店で休憩する人、十三間掘川に浮かぶ屋形船には料理を挟み楽しげに談笑する人々の姿が描かれています。 続きを読む
すみよしを歩こう・見よう・知ろう
近世の大阪湾岸には潮干狩りの名所がありました。『摂津名所図会』(寛政10年・西暦1798年刊) には「出見の浜」と高燈籠の絵が描かれています。高燈籠に登り、扇をかざして四方山 (よもやま) を眺めている人や、下の茶店で休憩する人、十三間掘川に浮かぶ屋形船には料理を挟み楽しげに談笑する人々の姿が描かれています。 続きを読む
天王寺から阪堺線の路面電車に乗って住吉に向かうと、乗客は鳥居までほんの数mの路上にある狭いコンクリートのホームに降ろされます。そのとき、源氏物語で光源氏が歩いた同じ参道に今自分が立とうとしていることを想う人はどれくらいいるでしょうか。 続きを読む
羅針盤などの航海術が未発達の時代、多くの遣隋使・遣唐使が東シナ海の荒波を乗り越えて大陸に渡りました。住吉大社のすぐ南側に人出型に入り込んだ入り江があり、船が出入りするに適した海岸がありました。それが住吉津です。 続きを読む
『東海道中膝栗毛 (とうかいどうちゅうひざくりげ)』は江戸時代を代表する滑稽本で、十返舎一九の名作です。江戸の長屋の住人・弥次郎兵衛と喜多八の二人が、東海道を旅しながら洒落・冗談をかわし、各所で騒ぎを起こしては名所をめぐっていく話は、俗に「弥次喜多珍道中 (やじきたちんどうちゅう)」として多くの日本人に親しまれてきました。 続きを読む
「一休さん」の名で親しまれている一休和尚 (いっきゅう・おしょう、1394〜1481) が晩年を過ごした仮住まい「牀菜庵 (しょうさいあん) は、現在の上住吉西公園の位置にあったといわれています。一休は後小松天皇の落とし子と伝えられており、天衣無縫・反骨な性格で京都・奈良・堺など移り住んだといわれています。 続きを読む
「お椀の舟で箸の櫂 (かい=いかだ)」といえば室町時代のおとぎ話、「一寸法師」のことですね。今から500〜600年以上も前、室町時代に書かれた『御伽草子 (おとぎぞうし)』という物語集に登場します。一寸法師はお椀の舟に乗って淀川を上って京の都に向かったとされています。 続きを読む
『摂津名所図会』は、「畠中に塚あり、土地の人はこれを玉手箱といっている。塚に上がるとたたりをうけるという。玉手島の誤りだろうか。いずれにしても住吉大社の末社の旧地と思われる」としています。玉手は玉出に通じることから、玉類の出土があったものと考えられます。伝承では、浦島太郎の玉手箱を埋めた塚ともいいます。この浦島伝説は丹波地方の伝説として知られていますが、住吉にも伝承があり、大海 (おおわたつみ) 神社を玉出島、手塚山古墳を玉出丘といいます。 続きを読む
遣隋使・遣唐使などの外交・交易活動の舞台となった大阪湾。その交通を保安・警備していたのが住吉津であり、外交・交易の玄関口となっていたのが難波津でした。 続きを読む
住吉大社は、神功皇后摂政11年 (西暦211年) に鎮座して以来、水都大阪の守護神として1800年にわたる大阪の歴史を見守ってきました。遣隋使や遣唐使の出航地であり、万葉集や住吉大社神代記にも歌われています。奈良時代、住吉の津から出航する遣唐使の海上の安全を祈り、江戸時代には、海上安全の守護としての信仰が広まり、運送船業の関係者から奉納された約600基の石灯籠が現存しています。 続きを読む