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初代学長・恒藤恭の足跡をたどる ―恒藤記念室(展示室)について―


 皆さんは、学情6階にある恒藤記念室をご存じだろうか? 恒藤記念室には、新制大阪市立大学の初代学長、恒藤恭に関する貴重な資料が展示されている。そのような素晴らしい施設にも関わらず、学生が知る機会はとても少ない。今回は、市大生に恒藤記念室を知ってもらうべく、研究員の田中ひとみ様に原稿をお寄せいただいた。

 

 恒藤記念室 研究員 田中ひとみ

                 学長室の恒藤恭=恒藤記念室提供​

 

新制大阪市立大学 初代学長 恒藤恭

 昨年は感染症の流行に大きな影響を受けた1年だったが、そのような中、本学が創立140周年を迎えたことをご存じだろうか? 1880(明治13)年に大阪商業講習所が開設して以来140年あまりを経て現在に至るまでには教育・研究機関としていくつかの重要なステップアップがあった。1949(昭和24)年に4つの源流(前身校)が合流し、新制「大阪市立大学」として出発した段階もそのひとつである。恒藤恭(旧姓・井川)は戦後間もない当時、大阪市立大学の初代学長としてその基礎を築いた人物である(1957年退任)。

恒藤の一生を追う展示

 本学学術情報総合センター6階には恒藤の足跡をたどる展示室が設置されている。展示の内容は、本学提供授業「博物館実習」の2016年度履修生による実習展示がベースとなっている。ここでは、恒藤の一生が8つの時期区分により紹介されており、日本における法哲学の確立に大きな役割を果たした知識人・恒藤の形成過程を追うことが可能だ。室内では時期ごとにパネルによる解説と恒藤関連資料を展示している。展示資料は、これまでにご遺族である恒藤家から数次にわたり本学に寄贈・寄託を受けた4000点以上に及ぶ資料群から選出されている。8つの区分から、以下に特徴的な2つを挙げてみよう。

             恒藤恭のスケッチブック=10月26日、片山翔太撮影​ ​

芥川龍之介との交流

 松江出身の恒藤は高校入学のため上京し、1910(明治43)年に第一高等学校(現在の東京大学教養課程の前身)で芥川龍之介と出会う。ふたりは親しく交流し、生涯を通じて親友であった。そのため恒藤家には芥川から恒藤に送られた直筆書簡102点が存在し、本学はこれら書簡群の寄託を受けている。展示室では芥川書簡(複製)1点を含め、恒藤が芥川を描いたスケッチ、恒藤による芥川の回顧録などその交流を表す資料を紹介している

 

京大滝川事件と恒藤恭

 恒藤と本学との関係は、1933(昭和8)年に起こった京大滝川事件に端を発する。恒藤は事件に際し学問の自由を守るために闘い、文部省に抗議して京都帝国大学を辞職した教授のひとりである。辞職後の恒藤は、大阪商科大学(本学前身校のひとつ)に講師として着任した。先述の通り、大阪商科大学は他の前身校とともに1949年に新制「大阪市立大学」となった。こちらのコーナーでは滝川事件の渦中で京大残留を勧める総長・小西重直に対し、恒藤が辞意を翻すことはない旨を記した書簡(下書き)や、事件を報じる新聞記事を恒藤自身が貼り付けたスクラップブックなどを展示している

■ご案内

・恒藤記念室(展示室):学術情報総合センター6階 アカデミックコモンズ南側隣室

・現在一般公開はしておらず、学内授業での見学、保護者(教育後援会)らによる見学など、事前の連絡・調整により見学を受け付けている

              恒藤記念室の様子=10月26日、片山翔太撮影​ ​

 

文責

赤松みなみ(Hijicho)


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